2021-12-15 (2016年度入学) 杉村 和智
過日どの新聞だったが失念しましたが「経営者には“創業”経営者と“操業”経営者の二通りがある。今の日本に必要なのは創業経営者だ」という主旨の記事が載っていました。では、創業経営者とはどのような人たちなのでしょうか。
就職してから数年後に同級生が起業したと聞いてから絶えず創業経営者に関心を持っていました。それから個人的なツテや創業経営者が講師をしたセミナー主催者からの紹介、何より幸運に恵まれて幾人かの創業経営者とお会いすることができました。代表的な方を挙げれば、パソナグループの南部氏、蔦屋書店・TSUTAYAを展開するCCCグループの増田氏、ソフトバンクグループの孫氏、楽天グループの三木谷氏などです。創業経営者から仲の良い創業経営者を紹介戴いたこともありました。
お会いした回数・創業からの時期・お付き合いの密度などには大きな違いがありますが、今考えれば創業経営者の皆さんには幾つかの共通点があったと思います。学問的な戦略論・ビジネスモデル諭・リーターシップ論などの視点ではなく、個人的感覚と思い込みを前提に創業経営者の共通資質を下記の様に纏めてみました。但し、女性創業経営者にはお会いしたことがないので当てはまるか否かは不明です。また、現在コンタクトが取れる方は御座いません。
【その一:骨量の多い“αオス”】
最初から創業経営者を動物に例えて大変失礼なのですが、昔、ブリーダーさんから犬を買う際に「骨量の多い子を選びなさい」といわれました。創業経営者とお会いするたびにこの言葉を思い出します。私の会った創業経営者は皆さん、背はそれほど高くなく筋肉質で骨太い方、つまり“骨量の多い”方でした。骨が細く、背の高い華奢なタイプの創業経営者にはまだお会いしたことがありません。また、動物学でいう“αオス”の雰囲気を感じます。αオスとは群れとメスを牽引する序列一位のオスのことです。創業経営者は、日々の重圧と圧倒的な孤独に耐えつつも泰然と構える動物学的なαオスに似た生得的資質を持っておられると思います。
【その二:美意識】
一言でいえばスポーツやエンターテイメントを含めた広義のアート好き/”芸術志向”者です。独自の美意識(美的なものへのこだわり)をお持ちです。オフィス・執務室・レセプション施設・ご自宅などに行けば、創業経営者の美意識の一端にふれることができます。創業経営者はビジョナリーだという方もいますが、日常の判断そのものが強い美意識に裏打ちされているので、そのように見えるのだと思います。芸術は精神の知られざる領域を探るものであり、そのために破壊と創造が伴うものです。既存の美/業界の常識を破壊して、自分の信じる美を創造するのは芸術家も創業経営者も同じだと私は理解しています。
【その三:(テーマを"解釈"するのではなく)いつも動詞で考える】
ある時、上記創業経営者のお一人から、次のような話をお聞きしました。
「何か、やるかやらないかと悩むだろう。そんな時、結局”やる”方を選んで来たら今の会社になった」。
この話を彼が、友人の同じく上記のお一人に話したら、
「それが分からない。やりたいと思ったことは、悩む前に、まずやってみれば良い」
と即答したと言うのです。
「これが悩んでからやる俺と悩まないでやる彼のスケール差なんだよ…」と。
そして一年ほど前、「動詞で考える」という講義を聞きました。バー・パブの経営を事例に、「カクテル」を考えるのと「カクテルする」を考えるのでは大きく違うというのです。前者は単なるカクテルメニュー開発に留まるが、後者ではカクテルを飲む男女の背景や文脈を考え、それがナイトライフ全体のビジネスに繋がるという内容でした。その時、創業経営者は名詞ではなく常に「~するとはなんだろう」と動詞レベルで考えているのだと気づきました。「動詞で考える」とビジネスが具体的にイメージされてきます。
私は、上記3点の中で“美意識”が一番大切だと思います。なので、操業経営者にはビジネススクールで良いのでしょうが、ビジネス創造者を発掘・育成するのなら、関連する学部・大学院にしっかりとした芸術教育やアート創作・イベント企画実習が必要ではないかと考えています。
【付記】今年10月、反田恭平さんがショパンコンクール2位となり大きな話題となりました。彼は創業経営者にピッタリだと思います。まず、中肉中背で骨太い体形、美意識は文句なしの筋金入り、そしてショパンコンクールに臨む姿勢はまさに「動詞で考える」です。ピアニストを超えた存在になるのではないかと予想しています。
左写真出所:https://spice.eplus.jp/articles/295371
2021-12-01(2013年度入学) 髙松 俊和
宮城県涌谷町、奥州平泉、栃木県馬頭町と続き、今回は4回目。残るは甲州金山と佐渡金山だと当初から考えていた。今夏のオリ・パラのボランティア活動も終えて、コロナ感染者数が一段落しそうな10月末に山梨県を訪れた。山梨県の鉱山と言えば、誰しもが思い浮かぶのは武田信玄により採掘されたと伝えられる甲州金山であろう。
はじめに記しておきます。甲州金山全体像の把握は当初予想していたよりもかなり手強かった。何故、手強かった?
①戦国時代の金山であり、前の3カ所とは違い関連する古文書を含め資料が数多くあり、読み解くには
私の力量が圧倒的に不足している。
②対象の金山は28カ所あり、研究者によっては50カ所との指摘もある。また、広範囲にわたり、山梨県
だけでなく、静岡県富士山麓、伊豆半島や愛知県設楽町にも存在。
③今までの文献資料のみで語られていた金山とは違い、大規模な金山遺跡調査が黒川金山と湯之奥金山
で行われ、その後の研究成果が既に発表されている。山梨県の金山研究は全国でも先行しており、考
古学、民俗学、鉱山技術史、地質学等の各分野から多角的に迫り、金山の規模・構造、生活形態、操
業年代、経営形態、鉱山技術といった金山の具体像が明らかになりつつある。多方面の知識が要求さ
れた。
④通貨としての金のアプローチも必要。
言い訳はこの位にして、先に進めます。今回の訪問先は、山梨県立博物館、図書館、山梨中銀金融資料館、大月市郷土資料館、湯之奥金山博物館であった。
我が国の採金事業の始まりは周知のように、東北地方などのおもに砂金採掘によって開始された。奈良東大寺の大仏や平泉中尊寺の金色堂に代表される古代の黄金文化は、東北地方で採取される砂金を主とするものであった。金産出に変化がおとずれるのは、戦国時代(15世紀後半)のこと。山から鉱石を掘り出し金・銀を生産するようになった。16世紀前半には石見銀山で「灰吹き法」という精練方法により生産量が飛躍的に増大し、中頃には世界の銀生産の1/3を占めていた。
金銀山は戦国大名の熱心な領内の資源開発の方針のもと開発がすすめられた。金銀は軍資金や恩賞用に重用され、またこれまでの銅銭に比べはるかに価値の高い通貨としても次第に通用してきた。戦国の領国経済から、政治的統一が進むにつれ、商品経済が拡大発展していった条件に基づくもの。
戦国大名の雄・武田氏は、父信虎を駿河に追放した後に周辺の国々を次々に支配下におさめていった。信玄没後1573年に領地は最大となり、信州・駿河と上野・飛騨・美濃・三河の一部を領有した。この勢力拡大の背景には、積極的な金山の振興があり、最大版図内の金山分布は右図の通り。
1.産金の三つの形態
① 「砂金」採掘金山
② 河岸段丘の「柴金」採掘金山
③ 鉱石からの「山金」採掘金山
金鉱石からの産金は15世紀末~16世紀初頭、涌谷からおよそ750年後。その間、砂金採掘は続けられていたが、奥州藤原氏の栄華を支えた陸奥金山以外では量が僅かであったのか?空白の期間なのか?
素人の私が考えても、砂金の多い谷を遡ればいつかはその起源の鉱脈にたどり着ける。700年以上にわたり金を求めて何ら行動を起こさなかったとは考えにくい。では、何故?
①密かに採取して、誰かがどこかに蓄えていた。
②そもそも金そのものの需要がなかった。
③鉱石の採掘技術がなく不可能であった。
④砂金を取りつくしたか、微量で生活ができなかった。
また、「謎」を増やしてしまいました。
甲州金山の繁栄と衰退は武田氏の盛衰と結びついていると考えていたが、黒川、湯之奥金山の遺跡調査により、大幅な見直し・修正が加えられた。ここでは、両金山の概略を記しておきます。
黒川金山は、山梨県北東部、塩山市の鶏冠山(標高1710m)にある。水系は多摩川の源流地域に属する。規模、組織、採掘技術、鉱山技術者の存在形態などを明らかにするために、1986~1989年に4次に亘り総合的調査が行われた。約300カ所の平坦地(テラス)があり、鉱石の採掘、粉砕、選別、精練等の作業が分業体制で行われて1000人程度の集落を形成していた。
湯之奥金山は、山梨県南部身延町の毛無山(標高1964m)の中山金山、内山金山、茅小屋金山の三つの総称。信玄の隠し湯の一つのしもべの湯治場(下部温泉)の奥にある集落名からこの名称。1989~1991年に3次に亘り調査。テラスは124カ所あり鉱山集落を形成していた。
固い鉱石を粉砕するための道具が鉱山臼。ところが黒川と湯之奥ではこの臼の形状の違いが調査で判明。同じ武田氏の甲斐国で交流がなかったと思われることから、天領佐渡のような直接支配ではなく、間接支配で管理監督に徹していたとの指摘。今日の“請負業”であったのかもと、武田氏滅亡の後の技術者としての活動を知ると納得する。
両金山の開発時期については、発掘された陶磁器類から信玄の祖父信綱の時代(1500年前後)に採掘が始まったらしい。両金山のせめて入口まで行きたいと思い、地元の方に聞いたが2年前の台風でのり面が崩れて車両での通行は不能とのこと。残念である。
2.甲州金山と金山衆
金山衆(採掘や製造に携わった人々)には金山で作業する人々と彼らを統率し、金山経営を行っていた人々が存在していた。統率者は、自身の田畑などを所持し、商業を営むなど地域の有力者として存在。作業者は金の生産を担い、中には他国から来た技術者もいた。信玄は、金山衆が金山で培った採掘などの技術を利用して、敵城の備えを地中から掘り崩して城攻めを成功させた。(1571年 駿河深沢城)
金の産出量が減少してくると、金山衆は新たな道へ。自らの田畑や商売に戻る者、武士として身分を獲得する者、技術を生かし土木事業に携わる者、新たな鉱山を求めて他国へ移動する者など活路を求めた。
佐渡金銀山で業績を上げた奉行の大久保長安や鎮目唯明等が甲斐出身であり、また佐渡の地方役人には甲州人が多かったのも事実。(地役人出身地は甲斐33、石見7,越後6)
甲府盆地に流下する諸河川は、傾斜が急で荒ぶる川が多く、治水は重要な課題。釜無川の信玄堤の築造、大月市の猿橋、御勅使川(みだいがわ)の分流工事などは金山の採掘技術の応用によるとの指摘もある。
3.甲州金山の産金量
近年、鉱山坑道内を遠隔操作型ロボットで3次元レーザースキャナーを用いて湯之奥中山金山の採掘体積算出した研究結果が発表された。戦国時代に武田氏が湯之奥金山、黒川金山、早川金山等28カ所の開発を行っていた。最盛期には鉱石1トン当たり数十から百グラムの金の含有量。
坑道跡や露天掘り跡のレーザー測定の結果、採掘体積約400㎥。現地の石英脈やゆり滓の分析から金含有比は7.1g/tから19g/t。平均値金含有13g/tを用いると、途中の計算は省くが中山金山からの産金量約270㎏と推測。武田氏の開発金山は28カ所であるので全体で約7.6t。佐渡金山400年間の産金量は約78t。武田氏の開発した金山の規模は佐渡の約1/10。大雑把な推定ではあるが、甲州金山全体の総産金量がはじめて示された。湯之奥金山博物館内に坑道内の実物模型(写真下)が展示されており体験してきたが、非常に狭く採掘作業は過酷な労働であったろう。
また、博物館では初めて砂金取り体験を楽しんだ。写真は、30分かけて採取したもの。腰が痛くなり、老体にはこれ以上続けられなかった。ちなみに金の多い方が私で、他方は妻の分。ほぼ同じ量?そんなはずはない(写真:下2段目右端)。
湯之奥金山博物館
4.今回の旅を終えて
甲府城跡(舞鶴城公園)の天守台跡から市内外を眺めましたが、甲府盆地は本当に山に囲まれています。それも、低山ではなくて1000m以上の山に。その向こうに南アルプスや富士山。周りを見渡すと、二つの感覚をもちました。一つは、山の囲まれていて自然豊かで自分が守られている感覚。もう一つは、なにか山が壁にも思えて壁の向こう側に行ってみたい、壁を超える力も必要で頑張れねばという感覚。地方で暮らした経験のない、東京の下町住工混在密集地に暮らしてきた私の感想。
金を求めた旅を続けてきて自分が金山についての知識を僅かでも持っていると考えていたが、思い上がりでした。面どころか、点にもなっていなかった。反省しつつ、もう少し甲州金山と付き合いたいと思う。生誕500年の信玄公がお許しならば。ということで、まだまだ楽しい旅は続けます。
2021-11-15 (2016年入学) 原間 登
2018年に商研を修了してから、引き続き聴講生として毎年2、3科目の聴講を続けています。しかし、コロナ禍でZoomを利用したオンライン授業になり、日常が激変してしまいました。そうした中、従来なら気にしなかったことを意識するようになりました。
何のために聴講をするのかを意識するようになりました。在学中からの引き続きで、何となく継続していました。聴講するのは、単に授業に出席するだけでなく、大学に来ることにより、仲間に会い、交流することに意義があると感じていたからだと思います。しかし、コロナ禍でオンライン授業になったら、単に知識を習得するだけと感じました。正規生として、マスターを取得するためなら、それもありかもしれませんが、私としては、対面でなければ意味がないと思いました。
今年度は対面になると思い、聴講を申し込みましたが、新年度が始まったら、またコロナ感染が広がってしまいました。そうしたなか、来年度は何か新しいことを始めようと考えました。
シニア院生の中にも多くの経験者がいらっしゃるセカンドスクール等を検討しましたが、いま一つ感性が合いません。また、商研で研究した内部監査と関係深い内部統制について関心があり、2019年から法研(法学研究科)で会社法の講義を聴講しています。この分野については、非常に関心がありますが、法学については疎く、仕切が高いと感じ、躊躇しました。かつ、商研に在籍した当時、前後の入学者にも同世代が多く、大学院で学ぶのは60代半ばがベストと思い、70代になると体力的にもきついと思いました。3月に古希を迎えていたので、再度、大学院に入ることはきついと考えました。
今年聴講している科目には、シニア院生が3名も出席し、活発に討論を繰り広げており、刺激を受けました。シラバスによれば後期は、関心がある分野ですので積極的に参加できると思いましたが、変更になり残念です。また、近時、シニア入試で入学した方には同世代が多いことを知り、もう一度チャレンジするのも有りかなと思いました。
商研や経営学研究科には、シニアも在籍していますが、法研は若い人が多く、研究者養成がメインと感じました。そうした中に入る難しさも感じましたが、法的視点から見た内部統制のあり方を学ぶため、もう一度チャレンジしようと思いました。しかし、銀行員として金融法務を身に着けましたが、金融取引で裁判沙汰を回避し、敗訴しないためのもので、民商法を本格的に勉強したことはありません。いわんや、会社法上の論点がどこにあるかなど知りません。
法研の入学試験に合格するためには、会社法に関する筆記試験対策が必須項目です。商研の一般入試と同じく、筆記試験を受からないと面接試問に進めません。会社法のどの論点が出題されるかという問題以前で、どこが論点なのかも分からない状態でした。そこで、今年入学した院生が利用した基本書を入手し、その本を六法片手に読むことにしました。条文に当たるのが鉄則とは知っていましたが、基本書1冊をこなすのは大変で、今年の夏は暑く、苦しい夏になりました。
幸か不幸か、コロナ第5波の影響で、試験はZoomを使用したオンライン面接になりましたが、無事、合格しました。来春からは、週に4日程度GFに通うことになります。今回の再チャレンジも、GF-Master倶楽部の皆様からエネルギーをいただいたから成し遂げられたものと思います。コロナと共存しながらになるでしょうが、GF-Master倶楽部の皆様と駿河台でお会する機会も多くなるでしょうから、今後ともよろしくお願い申し上げます。
2021-11-01 (2021年度入学) 小平 紀生
60歳を超えても幸いにして引き続き会社に籍を置くことができて、さらに10年近くたった。これも今年度末をもって終わりにする予定であるが、まさか同じ会社に技術者として半世紀近く在籍することになるとは入社時には想像すらしなかった。しかも同じ製品分野に携わること45年、シニア入試の要件は悠々と満たしていた。
入社数年後の1978年に試作開発に着手して以来30年間、研究開発から事業統括に至るまで産業用ロボットの事業に従事した。その後の15年間は会社の事業から離れて業界人として業界団体、学会、官公庁関係の活動で産業振興、学術振興に関わってきた。産業用ロボット市場の黎明期から現在に至るまで、事業活動と社会活動の両面で関与してきたことになり、何とか自己満足できるレベルでは技術者人生を全うしたと思っている。
そもそもなぜ技術者をめざしたのか、そして技術者人生をそこそこ全うしながら、なぜいまさら商学研究科に籍を置いているのか、まあ、老後の道楽という側面も無きにしもあらずではあるが、一応は自分なりのシナリオはある。
GF-Master倶楽部の皆さんは1940年代後半から1950年代の生まれだと思う。この世代の少年時代は戦後の影を多少感じつつも、生活が日々豊かになっていくことを実感し、来るべき21世紀の夢を語りかけてくる雑誌やテレビ番組にも囲まれていた。鉄腕アトムのテレビ放映が1963年元日からで、当時私は小学校5年生。アトムの誕生日は2003年4月7日、ということは、私はその時には51歳になっているはずなのでちょうどいい感じなのである。いずれにせよ理系を志向するようになり、そろそろ大学受験志望校を確定すべき高校2年の時に遭遇したのが1969年のアポロ11号月面着陸。テレビ中継はスタートレックよりは随分地味で。ボロボロの画像であったが、月からのリアルタイムの実況という、とてもすごいものであった。実況の感動をさらに大きくしたのは、ケネディ大統領が1961年に「この60年代が終わるまでに人間を月に着陸させ、安全に地球に帰還させるという目標を達成する」と演説し、それをちゃんと実現したことである。日ソ冷戦下で国を挙げた宇宙開発競争の産物とはいえ、宣言通りに目標を達成する技術者のすごさに素直に感動した。これで技術者志望が決定的となり工学部に進んだ。
技術職として総合電機メーカに就職したのが1975年のこと、戦後の高度成長期を終わらせた第一次オイルショックの直後で、会社の景気も今一つ。しかし、1980年ころから明るい話が多くなる。世にいう安定成長期である。電気電子産業と自動車産業が日本経済を牽引して、圧倒的な貿易黒字を産み出し、製造業の付加価値総額はトップの米国にほぼ肩を並べるレベルに迫った。そして1990年代初頭のバブル崩壊。その後の日本経済は長い長い停滞期に入った。
20世紀の末期から21世紀初頭にかけて技術者として過ごしたことは大変幸運なことであったと思う。なにしろ少年雑誌で見た21世紀の夢の科学技術を実現するその場に居合わせ、わずかながらその一端を担ったのである。特に技術開発担当者から技術系中間管理職にかけての1980年代、1990年代が一番、エキサイティングであった。何しろアナログ中心社会からディジタル中心社会に切り替わるタイミングである。そもそも産業用ロボットがディジタル制御の象徴みたいな製品である。インテルから不具合報告義務とセットで無償提供してもらった出来たてほやほやの16bitマイクロプロセッサを手作り基板に乗せて扇風機で冷やしながら機械語コードでプログラムを組むという手作業の原始レベルから始まり、マルチプロセッサで実行する膨大なプログラムをオブジェクト指向プログラミングシステムで組み上げるという近代レベルに到達するまでの20年である。この間に機械技術や情報処理技術も格段の進歩を遂げており、製品に次々と取り込む技術ネタには不自由せず、他社との競争もなかなかスリリングであった。2000年代に実務を離れて事業責任を負うようになってからはあまり良い思い出はない。現在はかなり改善されており会社からも期待される事業分野になっているものの、当時の産業用ロボットは過当競争で収益的にはかなり心細く、私企業内での居心地は、はなはだ悪かった。見る見るうちに海外に市場が広がっていったのが唯一の楽しみであり、腕の見せ所でもあった。
ところが、2000年代後半から会社の事業を離れ、製造業の自動化に関わる専門家として社外で活動するようになってから、将来の日本に不安を覚えるようになった。すでに日本経済はバブル崩壊以降20年ほど低迷していたが、もちろん製造業に関わる問題点についてもそれなりに分析はしていた。立場的に技術的な切り口からの分析であるが、日本の工業技術はいまだ優位性もあり、不安要素はあるにしても期待の広がった議論は多かった。
将来の日本に不安を覚えるようになった要因は技術的なものではなく、製造業の経営における志の問題である。例えばロボットによる自動化商談でも、1980年代であれば世界一になるためのポジティブな自動化を目指したものが多かったが、最近は現場の頭数を減らしたいというネガティブな話が多くなった。厄介なのは劣化しているのが技術や運用の巧拙ではなく「志」だからである。高度成長期や安定成長期には、ともかく欧米に追い付き追い越すという志を全国民が共有していた。バブル崩壊で追うべき目標を見失い、気が付けば新興工業国から追われるという状況に変わっていた。追う立場から追われる立場に変わり、製造業の経営的な志がどう変化したか。追う立場の製造業は健全であった。頼れるものは技術力である。少しでも良いものを生み出そうという志なのである。ところが追われる立場になったとたん、競争力低下を人件費のせいにしはじめる。それを20年以上続けた結果、かつての日本とは似ても似つかない労働の質的低下を伴う低賃金国になり果てている。経営の志の問題は工学技術では解決できるものではない。かくして、技術者人生をいったん終えて経営、経済、流通その他の切り口で見直してみよう、というのが当面のわが志なのである。
さて、最初の半年を終えて、系列によって印象は違うと思うが、私の場合は主として経営学に対する感想である。まず切り口の違いはなるほどと思うことも多い。事業経験では体で知っていることについて体系だって説明されたものもある。市場初期の混然雑然状態から、ある期間で何らかの体系に淘汰される経験には、ドミナントデザインなんて洒落た解釈がついていた。ただ、不満なところも多い。技術系出身であるがゆえの感覚に偏っていることと思うが、大きくは3点である。
1点目、企業経営の優れた事例から研究するのは構わないが、優れた事例の多くは資金的人的に尤度のある場合が多く、実態の大多数の経営には何らかの避けえない制約がある。そのため勉強にはなるが役に立つかどうか疑問に思う展開は多い。過去の勝者の歴史は語れるが、将来のきわどいチャンスを活かすための戦略には結び付きにくいのである。
2点目は、解釈は多いがファクトが少ない。少なくとも理工系の場合は、基礎学から応用学に展開する段階で、多くは数理的にも証明された技術体系が存在する。体系に適合しない場合や条件もあるが境界線はある程度明らかになっていることが多い。ともかくファクトに基づいて証明できなければ相手にされない。そこからさらに複雑な問題を解明する、あるいは新しい展開を産みだすところに社会的価値がある。経営学的にはファクトに基づく分析というよりは事象の解釈に近い。なるほどと思う解釈も多いのだが、これを一般化しすぎるとはなはだ当たりまえのことを定性的にうまく説明したに過ぎないことになってしまう。
第3点目は、時代の背景や過去の分析おいて技術的な発展過程との関係が表層的すぎるということ。例えば日本では1980年代、1990年代、2000年代では時代を支えている技術的な背景が全く異なるにも関わらず踏み込みが弱いため、時代背景を反映していない一般論になりすぎてしまう議論も多い。下手をすると過去を簡単に否定するだけに終わってしまう危険性もある。
以上、ちょっと覗いてみただけの印象なので具体的にテーマを持って踏み込めば見える世界は違ってくるはずである。と言うか、このあたりの印象を活かして踏み込めばいいのではないかと思っている次第である。
2021-10-15(2015年度入学)島村 守
日本は、出生率低下による人口減少と地方から都市部への若者人口の流出に、高齢化問題も立ちはだかり、少子高齢社会を迎えている。また、今後も更なる進展が見込まれている。この少子高齢社会また進展する少子高齢社会において、全国に14,035ある商店街(平成30年度中小企業庁委託調査事業・商店街実態調査報告書による。以下、「地域商店街」という。)はどう対応すべきか。その対応策を検討し、次のとおり地域商店街の六つの対応策(提言)としてまとめた。
【提言①】地域商店街は「身近な商店街」を創造せよ。
―大事なことは「地域特性」に向き合うこと―
図表1により「都道府県別合計特殊出生率(2017年)」をみると、最も高いのは沖縄県の1.94で最も低いのは東京都の1.21で、その差は0.73である。一方、「都道府県別高齢化率(2018年)」をみると、最も高いのは秋田県の36.4%で最も低いのは沖縄県の21.6%で、その差は14.8%である。これが、国立社会保障・人口問題研究所の「日本の地域別将来推計人口(平成30年推計)」によると、2045年(令和27年)には、合計特殊出生率の最も高い沖縄県では0.06上昇し2.00となり、最も低い東京都では0.02上昇し1.23に達すると見込まれている。一方、高齢化率はやはり同年には全都道府県で30%を超え、最も高い秋田県では13.7%上昇し50.1%となり、最も低い東京都でも30.7%に達すると見込まれている。
図表1 都道府県別合計特殊出生率・都道府県別高齢化率
順位 |
都道府県別合計特殊出生率 2017年(平成29年) |
都道府県別高齢化率 2018年(平成30年) |
||
1 |
沖縄県 |
1.94 |
秋田県 |
36.4% |
2 |
宮崎県 |
1.73 |
高知県 |
34.8% |
3 |
島根県 |
1.72 |
和歌山県 |
32.7% |
… |
… |
… |
… |
… |
45 |
京都府・宮城県 |
1.31 |
愛知県 |
24.9% |
46 |
北海道 |
1.29 |
東京都 |
23.1% |
47 |
東京都 |
1.21 |
沖縄県 |
21.6% |
― |
(全国平均) |
(1.43) |
(全国平均) |
(28.1%) |
出所:厚生労働省(2017年)「人口動態統計」と総務省(2018年)「人口推計」をもとに筆者作成
少子高齢社会といっても、合計特殊出生率及び高齢化率は47都道府県で大きな地域差が見られ、将来的にも大きな地域差が見込まれている。この地域差は、各47都道府県内の人口数、人口構成、世帯数、労働力、生産力、消費額等の様々な面に現れてくる。この状況は、全国の約1,800市区町村においても同様である。これは、全国の14,000余の商店街が、それぞれの地域商店街ごとに少子高齢社会の地域差に対応し続けなければならないことを意味する。よって、地域商店街は、それぞれの「地域の特性」に向き合って「身近な商店街」を創造すべきである。
【提言②】地域商店街は「法人組合組織」により「がんばる商店街力」を高めよ。
―任意団体商店街は組合組織の法人化を目指そう―
全国の地域商店街は、図表2の「全国の商店街の組織形態・数」のとおり、商店街振興組合法に基づく「商店街振興組合」が2,040(16.9%)、中小企業等協同組合法に基づく「事業協同組合」が949(7.8%)、これらの団体以外の法人である「その他の法人」が39(0.3%)、非法人である「任意団体」が9,068(75.0%)で構成され、非法人である「任意団体」が4分の3と圧倒的に多い。
図表2 全国の商店街の組織形態・数 (N=12,096)
商店街振興組合 |
事業協同組合 |
その他の法人 |
任意団体 |
合 計 |
2,040 (16.9%) |
949 (7.8%) |
39 (0.3%) |
9,068 (75.0%) |
12,096 (100.0%) |
出所:中小企業庁「平成30年度中小企業庁委託調査事業・商店街実態調査報告書」をもとに筆者作成
次に、図表3により「来街者のニーズ調査と通行量調査の実施状況」をみると、来街者のニーズ調査と通行量調査とも、「実施はしていない」が高い比率を占めていることに驚くばかりである。しかしながら、これを商店街の組織形態別にみると、来街者のニーズ調査の「実施(定期的に+必要に応じて)」は、商店街振興組合35.7%、事業協同組合29.6%、任意団体12.9%で、一方、通行量調査の「実施(定期的に+必要に応じて)」は、商店街振興組合59.4%、事業協同組合52.1%、任意団体27.9%と、法人化された組合組織の商店街振興組合と事業協同組合が圧倒的に多く実施している。
図表3 来街者のニーズ調査と通行量調査の実施状況 (N=2,866)
|
定 期 的 に 実 施 |
必 要 に 応 じ て 実 施 |
実 施 は し て い な い |
その他 |
無 回 答 |
合
計 |
||
来街者のニーズ 調査
|
3.2% |
20.9% |
71.1% |
1.4% |
3.4% |
100.0% |
||
|
商店街振興組合 |
5.5% |
30.2% |
61.0% |
1.7% |
1.4% |
100.0% |
|
事業協同組合 |
2.8% |
26.8% |
65.8% |
1.1% |
3.4% |
100.0% |
||
任意団体 |
1.4% |
11.5% |
81.1% |
1.4% |
4.7% |
100.0% |
||
通行量調査 |
16.6% |
27.0% |
49.5% |
3.6% |
3.4% |
100.0% |
||
|
商店街振興組合 |
26.2% |
33.2% |
34.3% |
4.2% |
2.0% |
100.0% |
|
事業協同組合 |
17.1% |
35.0% |
41.0% |
3.7% |
3.1% |
100.0% |
||
任意団体 |
8.3% |
19.6% |
64.5% |
3.0% |
4.6% |
100.0% |
||
出所:中小企業庁「平成27年度中小企業庁委託調査事業・商店街実態調査報告書」をもとに筆者作成
これは、法人化された組合組織の商店街振興組合と事業協同組合の「がんばる商店街力」の証明と言えよう。また、商店街振興組合と事業協同組合が有している「対外的信用力の高さ」、「情報収集力の強さ」、「責任の明確化」等の法人化された組合組織メリットに依るものに外ならない。
よって、少子高齢社会への地域商店街の対応にも、商店街振興組合又は事業協同組合の法人化された組合組織による「がんばる商店街力」を一段と高めることが必要であり、任意団体の商店街においては、商店街振興組合又は事業協同組合の組合組織への法人化を目指すべきである。もちろん、組合は自主的な組織であり、いわゆる自助の精神がその基本になければならないことを、忘れてはならない。
【提言③】地域商店街は「複数地域商店街による共同取組み」にもチャレンジせよ。
―先ずは近隣の地域商店街による共同取組みを―
少子高齢社会への地域商店街の対応策は、一つ一つの地域商店街が単独で取り組むだけでなく、複数の地域商店街が共同で取り組むことも可能である。むしろ、共同で取り組んだ方が大きな成果が期待できる対応策もあろう。先ずは、近隣の地域商店街との共同取組みにチャレンジするのが近道と考える。
複数の地域商店街による共同取組み事例には、埼玉県商店街振興組合連合会(所在地:埼玉県さいたま市大宮区、組合員数:19商店街振興組合)の『全県一斉商店街まつり促進事業』があり、大きな参考になる。
これは、埼玉県内の地域商店街がそれぞれ独自に実施している大売出し等の販売イベント事業を全県で一斉に実施する事業で、県内規模の一斉商店街事業としては、全国初と言われている。
『全県一斉商店街まつり促進事業(2014年)』の内容は、次のとおりである。
(1)趣旨・目的
県下の商店街が、埼玉県民の日(11月14日)から3日間に統一テーマ『つなぐ』の下、独自の
イベントを一斉に実施する。全県で実施することで商店街単独では得られないPR効果を発揮し、
集客促進を高めるとともに多くの県民が、県内商店街へ訪れ、その魅力に触れる機会を創出する。
(2)参加商店街数
132商店街(任意商店街を含む。)
(3)イベントの内容(総イベント数:53事業)
・街バル等のグルメイベント 10事業 ・イルミネーション点灯式セレモニー 8事業
・大売り出し等のセールイベント 8事業 ・ダンス大会等の音楽イベント 7事業
・100円商店街等のワゴンセール 5事業 ・スタンプラリー 5事業
・その他(子ども縁日、まちゼミ等) 10事業
(4)事業実施成果(埼玉県商店街振興組合連合会のアンケート集計結果による。)
・集客人数 約216,900人
・売上増加率 平均8.9%増(通常イベントとの比較による。)
【提言④】地域商店街は「IT利活用」により「高齢者向け商店街活動」を発信せよ。
―商店街HPからの「オンライン・ショップ」の導入も―
高齢者は、IT利用の経験が乏しく、また、その身体機能や認知機能が低下するといわれているため、インターネット利用率は相当低いと思われがちである。図表4により「インターネットの高齢者利用状況」をみると、2020年(令和2年)8月末は、「60~69歳」が94.7%、「70~79歳」が59.6%、「80歳以上」が25.6%と非常に高い。しかも、2016年(平成28年)9月末と比較すると、それぞれ125%、111%、109%と高い増加率を示している。今後は、インターネット利用率の高い高齢者予備軍(40~64歳)が高齢者へ移行していくことを考えれば、高齢者の利用率は一層高まることは確実である。
よって、地域商店街は、インターネット利用率の高い高齢者を視野に入れ、ITを利活用した商店街活動に取り組むことが必要である。具体的には、HPを保持している地域商店街は、自宅にいながら買い物ができる「オンライン・ショップ」の導入等を検討していくべきであろう。
図表4 インターネットの高齢者利用状況(個人)
(2016年9月末:N=44,430・2020年8月末:N=41,387)
|
2016年9月末 (平成28年9月末) |
2020年8月末 (令和2年8月末) |
増加率 |
60~69歳 |
75.7% |
94.7% |
125% |
70~79歳 |
53.6% |
59.6% |
111% |
80歳以上 |
23.4% |
25.6% |
109% |
出所:総務省「平成28年通信利用動向調査ポイント」と総務省「令和2年通信利用動向調査ポイント」をもとに筆者作成
【提言⑤】地域商店街は「官民地域連携」により多様な取組みを展開せよ。
―「地域の声」に応える官民地域連携の構築を―
少子高齢社会の進展による地方自治体への影響には、(1)地方税収の減少、(2)社会保障経費の増加、(3)小・中学校等の公共施設の余剰、(5)地域産業の担い手の減少・売上の減少、(5)地域内消費の減少等が挙げられる。地方自治体にとっては、大きな政策課題が山積みとなっている。
このため、「2007年版中小企業白書」(中小企業庁)によると、「自治体が地域の中小小売業等へ委託したい業務」の第1位は「高齢者福祉サービス」で50%、第2位は「施設の維持管理」で43%、第3位は「施設運営」が42%と続き、第4位の「児童福祉サービス」も40%と高い比率を示している。よって、地域の中小小売業等の地域商店街は、地方自治体の期待に応えるとともに、提言①の「地域特性」に向き合って「身近な商店街」を創造するためにも、地元自治体との連携を一層強化することが必要である。
だが、地元自治体との連携だけで十分だろうか。少子高齢社会への地域商店街の対応策では、大型店と一線を画した地域重視の関係を構築することが、一層重要になってくると考えられる。よって、地域商店街は、図表5の「地域商店街と官民地域連携イメージ図」のとおり、地元の「自治体」、「住民」、「団体」、「大学」、「企業」、「NPO」等の「官民地域連携」を構築し、この連携で多様な取組みを展開することが必要である。具体的には、地域商店街がプラットホームとなり「地域の声」に応える官民地域連携を構築すべきであろう。
図表5 地域商店街と官民地域連携のイメージ図
出所:地域商店街のプラットホームをイメージし筆者作成
【提言➅】地域商店街は「フードデザート」問題への対応準備を開始せよ。
―地域商店街だからできる対応準備を―
「買物弱者」、「買物難民」という言葉を耳にすることが、実に多くなってきた。経済産業省が作成した「買物弱者応援マニュアルVer3.0」(平成27年3月)によると、買物弱者は「流通機能や交通網の弱体化とともに、食料品等の日常の買物が困難な状況に置かれている人々」を指し、日本全国の買物弱者数は約700万人と推計され、前回調査(平成22年)と比較すると増加傾向にあり、しかも、買物弱者は既に顕在化している農村・山間部のような過疎地に加え、今後都市部等でも顕在化することが予想されている。
この「買物弱者」、「買物難民」とともに、「フードデザート」(Food Deserts:食の砂漠)も、テレビ放送等のマスコミで報道され注目されている。この「フードデザート」は、元々、1990年に入ってイギリスにおいて、消費者が食品特に生鮮食品を容易に入手することができない消費者が増え、長期的には健康上の被害を抱える事態が大きく取り上げられ、その後、アメリカ等でも同様の問題の存在が指摘されることとなった。また、具体的指標として、およそ半径500m圏内に食品小売店がない地域とされる。農林水産省農林政策研究所では、日本全国の人口分布と食料品店の位置関係を実際に算出し、特に生鮮食料品販売店舗までの距離が500m以上で自家用車を持たない人口は910万人、うち65歳以上の高齢者は350万人にのぼると推計している。
地域商店街における「買物弱者」支援の取組みは、みやのかわ商店街振興組合(所在地:埼玉県秩父市、組合員数:104人)が、高齢者施設や山間地域へ商店街ごと出張し商品を陳列・販売する「出張商店街」(出張商店街楽楽屋らくらくや)を実施する等の多くの取組みが見られるが、「フードデザート」問題の対応という観点からの取組みは少ないものと推測される。「フードデザート」の食品は「買回り品」ではなく「最寄品」であるという点、また、高齢者に大きな影響を及ぼす点から、今後、地域商店街とりわけ近隣型商店街における「フードデザート」問題の対応への期待は高まるものと考えられる。加えて、日本的「フードデザート」問題はその要因が複合的であることから、多様な対策が求められている。よって、地域商店街は「フードデザート」問題に対し地域商店街だからできる対応準備を開始する必要がある。
この六つの対応策(提言)は、いずれも、それぞれの地域商店街で更に深掘りし、継続的な取組みが必要な対応策(提言)であり、しかも、直ぐに大きな成果につながるとは限らない対応策(提言)でもある。しかしながら、今、地域商店街に求められているのは、地域商店街として自分たちにできる対応策を行動に移し、スタートすることであろう。しかも、全国画一的な施策や助成に期待することなく、地域商店街が主体的に行動すべきであろう。
2021-10-01 (2012年入学) 山本 和孝
2008年4月 50才以上のシニアの為の大学 「立教セカンドステージ大学」が開設された。その講師陣の中に立花さんがいた。講義のテーマは「現代史の中の自分史」。一方的な講義形式ではなく生徒自身が自分史を書いていくという形。
立花さんは講儀の冒頭、自分史の手本として日本経済新聞の「私の履歴書」を挙げた。早速仲間が集まって検討会。「自慢話で良いってこと」「写真が載ってるね。データ重視ってことかね?」「何か面白いエピーソードが必要ってこと?」
「でも掲載されているのは企業のトップとか有名人ばかり。うちは父ちゃんが農業、自分は地元の信用金庫、そんな自分史なんか誰も読まないよね」「自分は娘たちに父親がどんな仕事をしてきたのか伝えてやりたい」自分史への取組姿勢は聞くことはできたが、検討会はさしたる成果もなく終了した。
次に立花さん課題として「自分史年表」の作成を要求した。いわば「履歴書、(学歴、職歴)、プラス個人生活史、プラス家族史」まずは、そのアウトラインを自分の思い出すままに書いてみるところから始めるのがよいという。
職歴の部分は「仕事内容の歴史」「職場異動の歴史」個人生活史の基本は住所変更の歴史をきちんとおさえることが重要だという。そこから自分史を大きく時代別にみる必要がある。時間軸に区分するなら、「少年時代」「高校時代、大学時代」職業人としては「入社直後と平社員の時代」「役職者の時代」等。「故郷にいた時代」「東京時代」「仙台赴任時代」というのもありそうだ。自分の人生をどのように区分しようかと考えるところから自分史の執筆が始まるといってもよさそうだ。
講義は毎週木曜日、43人の生徒がその前々日までに毎回一定量の自分史を提出する。その中から何篇かを選んで立花さんが講評する。
「これね、何言っているのかさっぱりわからないんですよ。でもね、
写真がついているんですけどこの内容がすごいんですよ。」
「この文章は長すぎますね、途中で段落を入れるとわかりやすく
なりますね。」
立花さんのコメントは講義の中だけではなかった。提出した文章が各人に返却されると、そこに「? ここよくわかりません」、「もっとくわしく」「GOOD」などのコメントが書かれていた。このコメントに励まされて多くの生徒が1年間自分史を書き続けることができた。
この講義の内容は「自分史の書き方」として2013年12月講談社より発刊された。 (完)
左上写真出所:https://www.asahicom.jp/articles/images/AS20170218000045_comm.jpg
2021年9月15日(2015年入学) 宗像 善昌
農家、農山村の人々から教わったことの多さに驚かされる。それとは無関係なことがらさえ、農山村の人々から教わったこととどこかで結びつくことによって、自分の知識領域に加えられている。おそらくその理由は、農民や農山村の人々から教わってきたことが、時間的普遍性(いつでも通用するという意味で‥!)をもっている事と関係している。彼らが語る言葉や、彼らが持っている作法の中に私が感じていたものは、時間的普遍性を伴った価値であった。自然とは何か、地域とは何か、人間とは何か、働くとはどういう事なのか…。自然とともに、土とともに村と生きてきた人々が諒解したものには、時代が変わっても風化しない基本的なものが込められていることを教えられた。
恒例になっている我が家のりんご狩りは昨年の11月に行って来ました。数年続いている異常気象は農家に大きな影響を与えている。肝腎な、りんごは豊作予想が一転、不作の年となってしまいました。原因は信濃川が氾濫するほどの豪雨と大型台風の連続襲来という異常気象でした。農業・社会生活にも大きな被害が発生し、自然相手では抵抗出来ず、収穫は一昨年の半分という結果でした。
あんず畑
今年の7月にはあんず狩りにも行きましたが、こちらも、4月に花付きも良く、豊作予想の報告がありましたが、開花後の季節外れの遅霜と、その後、続いた荒天に加え、コロナ禍による収穫時期の人手不足もあって減産となってしまいました。コロナ、自然災害の被害は、集落全体でおおきな問題なのですが、自然災害という事で対応策を講じないことが問題なのです。減産に加え、落果、枝スレのキズが多く、選果すると、生食用で出荷できるものは収穫の2割程度で、残りは製品原料用として加工工場に納めることになります。農家の収入は相変わらず『お天道様次第』の状況が続いております。自然と土にまみれた農業に対する愛着を話してくれた。
それでも農業から離れるつもりはないという決意と、続けるにも希望がないことなども聞いてしまった。今回は農家の人達と交流の中で『コロナ禍における農業への影響や、対応策』などが会話の中心になりました。外部の者でも農家の将来に不安を覚えてきます。集落全体が個人経営の小規模農家が多く、減産、薄利で厳しい経営を強いられているので離農も後を絶たないとのことです。今、国全体で小規模生産農家の生き残り対策を取らなければ、日本は自給率(39%)を高めることなど出来ないと実感させられた。高齢化が進み、若者離れが進み国は農業改革に踏み込めないのが実情です。少子高齢化の反面、長年、農業に従事し、経済的にも決して裕福ではない長老格の彼は『長く持続してきたもの』ですが、そういうものが、私が信頼しているものですと語たった。歴史が変わっても持続してきたものは信頼できると語り、さらに実がなって収穫できることが喜びと感じ、自然と土にまみれた農業に対する愛着を話してくれた。
農家でも考え方が変化してきたのは、コロナ禍で苦しむ自営業者、中小企業経営者、飲食店など生き残りのために奮闘をしている人たちが、今までの日常に戻れないことを覚悟で前進をしている。農業経営者も厳しい現状を目の当たりにして、自分達で農業を変えようという意識が見えるようになった。国に対する要望もはっきりと訴えていた。果樹園に向かう途中、ところどころ休耕地が見受けられる。同乗者からまだ増えるという話を聞き、欧米にならって補助金を水田、畑整備に投入し、管理強化すべき時期だろうと考えた。
自動車道路、港や、空港は、100%税金で作られているが、みんなが道路や空港を利用し利益を得ている。そこに税金を使うのは正しい事だと思う。自分たちがそういった社会装置にもたれかかっていながら、もう一つの、日本の基本をなす社会装置である国土を支えることが必要ではないかと考えた。田・畑・山・川も日本人が延々と作ってきた社会装置だと思う。私達が暮らしていく上で最も大切な装置ではないだろうか。国で支えていくことが必要だという認識が生まれてもいいのではないだろうか。過保護どころか、本気で農産物を作ろうという人達への支援を強め、完全自給を目指すことが、社会的な道理といえるのではないかと考えてしまう。(以上、あんず狩り農家の人々との対話報告)
選果したあんず
あんずジャム
コロナ禍における『食のサプライチェーンの影響』 -生産農家とともに苦しむサプライチェーン-
懸念されたオリンピックが無観客で開催され(無事?)終了したが、新型コロナウイルスの感染拡大は歯止めがかからぬ状況が続いている。感染拡大した7月下旬から、再度外出自粛、休業要請などにより、生活者の消費活動が大幅に減少し、また、多くの産業で働けないために生産活動に制約がかかっている。それぞれの生活者や労働者の活動の減少が対策期間中に生じたことは分かりやすいが、これから時間的な遅れを伴って、経済での需給面での影響がさまざまに表れてくることが心配される。それは、私達の経済社会が生産から、流通、消費までのサプライチェーンを構築しているためである。身近な『食』を題材に考えてみると、農業関連産業に携わる人たちにも、生産、需要のサプライチェーンの変化は参考になると思う。
新型コロナウイルスへの対策は、休校、営業自粛・休業要請、外出規制「ステイホーム」などの形式をとった。それによって学校給食向け、飲食店・ホテル向けの出荷が大幅に減少したが、一方、在宅機会が増えスーパーなどから食材購入の機会は増えたことで減少を相殺している。多くの食材に業務用向けと家庭用向けとがあり、業務用食材はそのまんま消費者向けに振り分けることは出来ない。とりわけ、レストラン、ホテルなどで料理人が調理する高級食材や、輸出用の高付加価値食材に関しては、在宅での消費に振り分けること難しい事だ。NHK番組の中で和牛・高級鮮魚の例を紹介していた。今回のオリンピック開催で、インバウンドはじめ高級食材の需要拡大を見込んだ増産・投資増加を行った企業にとって、開会間際の第4次規制強化でカウンターパンチを受けた状況にならないことを祈ります。
発注元が休業、施設の利用客が激減している為に、市場在庫が膨らむ状況では、生産者価格が低下し、さらに新たな農作物は行き場を失って、生産者の手元に大量に余剰作物として残ってしまった。多少、出荷期を伸ばすことは出来ても大きくなった養殖魚や野菜は売り物にならなくなった。結果として畑にすき込む、海に放流する、廃棄するなどの措置を取らなくてはならない状況となる。残念なことは需要が大幅に下がっていても、生産量を簡単に減らすことが出来ない場合がある。学校が再開し、給食が開始となるのはいつからかなと探りながら心配する納入業者、現状では再開日を決定することも、予定通りに実施することもままならない状況です。テレビ放映の中で「小松菜の栽培期間は種付けから収穫まで約30日間なので、一か月後に再開するかもしれないという状況では、たとえ捨てることになっても種付けをやめるわけにはいかない」と農家の人のせつないコメントが語られていた。食材を学校、飲食店、ホテルなどでの利用の再開、回復に合わせていくなかで、生産量の確保の視点も欠かせない。
現在、労働力の減少している日本の農業は、その労働力不足を外国人農業実習生の制度に頼っています。今年は実習生の多くがコロナウイルスによる移動制限によって入国できない状態が続いている(入国後の2週間の自主検疫が必要)。収穫期の労働力をいかに確保するかが問題になっている。食のサプライチェーンにおいて労働力を確保できるかどうかの問題は日本国内にとどまらないが、海外の農場でも他国からの出稼ぎ労働者に依存するケースが多く、人の移動制限による影響が今後強まっていく。
生産や輸入の減少の理由が需要減に合わせた調整であっても、あるいは労働力不足によるものであっても、今後、需要回復していく過程で今度は在庫不足の“カウンターパンチ”が発生する可能性もある。ひとたび底をついたサプライチェーンが再び十分な在庫で満たすには、需要の見通しの調整、生産のための投資、農作物の栽培・飼育期間などのさまざまな遅れを経るため、見通しを誤った作物では、数週間から数か月にわたって入手困難が続くリスクがある。
サプライチェーン内の過剰や不足への「対応方法」は、農産物、高級食材であれその他の一般食材であれ、消費者がいつ、どこに余剰食材があるかを知ることが出来れば、それを必要とする人や、応援したい人がインターネットなどで生産者、事業者に直接発注できる仕組みである。小口・個別の出荷だから、事業者の失われた売上を回収するまではいかなくとも、食品ロスの減少、仕入れ代金の一部を現金回収でき、生産者、消費者との新しい関係性を築くことが出来る。
今回のコロナ禍のような状況においては、改めてサプライチェーン全体の在庫や受注残、それぞれの入出荷、そして両端にある需要や生産の全体像を理解することが重要になってきた。チェーン毎の順次の調整だけではなく、より大きな視点での調整機能を構築することが必要となってきた。そうした調整が、労働力の融通(農業実習生の入国滞りで労働力不足に対し、旅館、飲食店など現在休業中の職種の従業員が応援する仲介サービスが長野・群馬・福島で行われている)を例に、地域単位で行われることがあれば、新しい情報プラネットホームに売り手と買い手が集う事で調整されることもある。
サプライチェーンに発生する振動は、長いチェーンの連鎖やリードタイムがある状況では、調節機能だけでは簡単に終息しない。思い切って鎖の数を減らし、流通に必要なリードタイムを減少することも必要です。上述の、生産者と消費者をつなぐサービスが有効なのは、鎖やリードタイムの減少を同時に行っているからだ。生産者にとって1世帯毎の個別・小口発送は効率の良いものではなく、消費者からも箱単位購入は過剰かもしれないし、取引コストは大きくなってしまう。食品の流通の役割はなくなるものではなく、むしろ戦略的な調達を通じて、仲買の付加価値を出すことが期待される。
日本の農業の抱える問題点は、①新規参入のハードルの高さ。②農業従事者の減少③食料自給率の低下などです。農地が確保されても、水利権の問題や農家同士の付き合いという心理的ハードルがある。一方、離農者は年々増加している。多くの農家の経営は苦しく、儲からない農業をやめ、他の道で生計を立てている人が増えている。又、高齢化が進み農地の切り盛りが出来なくなって農業経営をあきらめる人が増えている。食料輸入先との関係悪化、その国の政情不安が発生すれば、食糧輸入が出来なくなるという意識が日本人は希薄になった。輸入が制限された食料に依存していた業界は大きな痛手を被る。その企業の経営悪化やリストラにまで及んでしまう。
姥捨山
日本人の「食の安全」に対する意識は高い、輸入されている農作物も厳しいチェックが行われているが、日本人は国内産農産物に感じるほどの安心を海外食品から感じることは出来ないと思う。自給率が今より減り海外から食品を輸入せざるを得なくなれば、多少の安全性を犠牲にしてでも、量を確保しなければならない時が来るかもしれない。
国民が農業から離れた結果、農業に関する問題が他人事のようになってしまい、問題の存在自体が認識されなくなっているというのが現状です。
2021-09-01 (2015年入学) 廣瀬 秀德
東京五輪は新型コロナウイルスの感染「第5波」の中で17日間の日程を終えた。新型ウイルスの影響で1年間延期され、さらに大半の競技が無観客の異例の大会となった。開会直前まで混乱が続き、批判が渦巻く中で、さらに感染は収まらず、東京都に緊急事態宣言が発令される中で競技が続いた。まさに非常時の開催になった。選手らは外部との接触を断つバブル方式を徹底、競技で実力を発揮した。今大会は参加する選手の女性の割合が48.8%と五輪史上最も高くなった。様々な事情で母国から逃れた選手による「難民選手団」やトランスジェンダーを公表した選手が初めて出場し、競技の公平性と人権のバランスをめぐって種々議論を巻き起こした。「多様性と調和」は東京大会の理念の柱であった。1964年東京大会は日本人の国際感覚を変えた。敗戦に打ちひしがれていた国民は、五輪を経験して世界と対等に向き合う自信を持ち、その後の礎となった。半世紀以上が過ぎた今、日本は超高齢化と人口減の時代を迎えている。これからは国籍や人種、性別、障害の有無などの違いを個性として尊重し、多種多様な活力を生かすことが発展の鍵を握る。男性優位で同調圧力が強く、マイノリティが生きづらいとされる日本社会である。森元首相の女性蔑視発言から始まり、開会式直前には、演出担当者らが、過去の人権軽視などを指摘され、次々と辞任や解任に追い込まれ、開会式の変更を余儀なくされ、当事国に対し外交ルートを通じ、開会式の開催に理解を求め、事態が収拾したのは、開始まで24時間を切った同日夜だった。
それにしても東京五輪は余りにも大きな荷物を背負いすぎた。五輪招致に熱を入れた安倍晋三前首相は、東京五輪で経済再生を目指すアベノミクスの起爆剤にしようとした。2013年の五輪招致活動の際は、1964年の東京五輪を引き合いに、高度成長期の日本の夢をもう一度というイメージを振りまいた。さらに東日本大震災からの復興を世界に示す場という位置づけも五輪に与えた。2020年の新型コロナウイルスの感染拡大で、五輪開催の一年延期が決まると安倍前首相や菅義偉首相は「人類が新型コロナウイルスに打ち勝った証」に五輪を開くと言い出した。五輪開催問題が政争に直結されてしまった。これだけ多くのものを背負わされた五輪も大変だ。日本は64年の成功による五輪幻想から抜けきれなかった。それが過度に五輪に期待をかけ、重い荷物を背負わせてしまった。成熟国として五輪に向き合い、政治やビジネスと五輪との距離を見直し、アスリートファーストの原点に戻すべきであった。
今大会は、史上初めて開幕が1年延び、新型コロナの影響によって、当初計画から度重なる変更を余儀なくされてきた。17日間の会期中、感染力の強いデルタ株の広がりで東京都内の新規感染者数が急増し、一部に中止を求める声も上がった。しかし、世界各国から集まった一流の選手たちが見せた力と技は多くの感動を与えてくれた。厳しい状況の中でも大会を開催した意義は大きかったと言える。選手たちは、五輪の開催が危ぶまれる不安定な状態で練習を続けた。大会中も感染対策のために行動制限を課せられたが、全力を尽くして戦った選手たちを称えたい。日本選手団は、金27、銀14、銅17の計58個に上るメダルを獲得し、金メダル、メダルの総数も過去の大会よりも最も多かった。競技会自体は長丁場をよく乗り切った。これほどの巨大イベントをそつなく運営したのは日本の「現場の力」である。名場面も多く、日本選手の活躍のなんと目覚ましかったことか。しかし、それでも「1964年」がもたらしたような多幸感は社会に見いだせない。聖火が消えて、コロナ禍の日常に引き戻されるだけでなく、往時との落差が余りにも大きいのである。この大会をなぜ、何のために開催するのか、問われ続けた大義は曖昧なまま現在に至る。やはり、64年の再来を望む意識であったのであろう。五輪の呪縛が、政治家や官僚を捉えて離さなかったともいえる。人々は競技に感動しても、五輪という仕掛け自体には酔ってはいない。2024年にパリ五輪を開催するフランスの主要紙ル・モンドは、大会期間中に拡大した新型コロナ感染に「政府の対応が追いついていない」と厳しい目を向けた。「東京五輪で明らかになったのは政府と国民の溝だろう」とも指摘した。
つかの間の夢から覚めれば、コロナ対応に手間取り、デジタル化は大きく遅れ、多様性尊重も掛け声ばかりという現実が目の前にある。そして急速な高齢化を伴った人口減が進んで行く。どんなカラ元気を出しても昭和のあの時代には戻れない。この異形の五輪は日本人にようやく64年幻想からの脱却をはたさせるかもしれない。それは戦後史の転換点ともなる変化である。
少し趣を変えて、今から5ヶ月前の4月9日の日本経済新聞のコラム「大機小機」の「いつの間に後進国になったか」を転記することにする。
『コロナ禍で思うのは、いつの間に日本は「後進国」に転落したのかという点である。肝心なワクチンは米英独や中露のような開発国にはなれず、インドのような生産拠点でもない。ワクチン接種率は世界で100番目だ。「ワクチン後進国」に甘んじるのは、企業も政府も目先の利益を追う安易なイノベーション(革新)に傾斜し、人間の尊厳を守る本源的なインベンション(発明)をおろそかにしたからではないか。「デジタル後進国」も鮮明である。接触確認アプリの機能不全を見逃すなど行政のデジタル化はお粗末だ。中国先行の高速通信規格「5G」では競争に参入できず、得意だった半導体も米国、韓国、台湾の後塵を拝する。福島原発事故を経験しながら「環境後進国」に陥ったのは、変われない日本を象徴している。再生可能エネルギー開発は欧州や中国に大差をつけられ、電気自動車も大きく出遅れた。脱炭素の目標設定は大幅遅れで、構造転換の覚悟にも欠ける。世界120位の「ジェンダー後進国」は目に余る。コロナ禍で指導力を見せたのは、メルケル独首相やアーダーン・ニュージーランド首相らだが、日本に女性政治家は少なすぎる。20人にもなる日本経団連の副会長にやっと女性経営者1人選ばれてニュースになるのはさびしい。「人権後進国」は日本外交の弱点になる。バイデン米政権の登場で人権重視が世界の潮流になった。新疆ウイグル自治区や香港の人権問題で米欧と連携して中国に厳しく対応しないと世界の信認を失う。ミャンマー軍の弾圧を止めるため先頭に立つべきは軍とパイプのある日本だ。援助停止など手段はある。そして「財政後進国」である。コロナ禍で財政出動は避けられないが、日本の公的債務残高の国内総生産(GDP)比は2.7倍に膨らんだ。日銀が大量の国債購入で財政ファイナンスにあたるから規律は緩む。財政危機の重いツケは将来世代に回る。日本が後進国に転落した背景には、政治・行政の劣化がある。責任も取らず、構想力も欠く。問われるのは、日本のガバナンス(統治)である。コロナ危機下で科学的精神と人道主義に基づいて民主主義を立て直し、資本主義を鍛え治さない限り、先進国には戻れない。』
1964年の東京五輪の開催時には、私は大学に入学した年で、最終聖火ランナーの坂井さんは、同期生であった。当時は、東京五輪のために建設ラッシュであり、インフラも急速に整備されつつあった。首都高速道路をはじめ、東海道新幹線が開業、代々木のオリンピック会場である国立競技場などが新たに建設され、都心の風景は大きく変わった。マラソンコースになった甲州街道などの主要幹線は舗装され、下水道も整備された。ただ、郊外では未舗装道路や、下水道の未整備状況は続き、インフラ整備はそこまでは手が届かなかった。ゴミやたばこのポイ捨てや、立ちションベン禁止等の指導も行われており、国民の意識はまだ先進国並みのマナーを持ち合わせていなかった。しかし東京五輪をきっかけに、日本は高度成長時代に向かい、池田総理の所得倍増計画も実現され、国民のマナーも先進国並みになり、国民の高揚感が芽生えていった。大阪万博も大盛況で、日本の成長は特出し、世界の中でも注目をあびることになった。そして日本は世界に冠たる経済大国になったのである。それから半世紀余り経ち、2020東京五輪が決定された。コロナ禍もあり、開催の一年延期、さらに開催の是非論もあったが、開催は強行された感がある。それは現政権を主として、64年の東京五輪の成功による高度成長期の日本への再来を夢見たことが強行開催を決定した大きな要因であろう。もちろんそれにより政権の支持率が向上することであり、総選挙での勝利のための起爆剤にしたいというのが政権の目算であった。しかしながら、菅総理をはじめ、五輪開催の決定の説明は、納得いくものでもなく、IOC任せの発言ばかりで、誰が総責任者なのかが全く分からない状況で五輪は始まった。コロナ対策についても、ワクチン接種の遅れ、緊急事態宣言の繰り返し等の科学的、具体的な説明がないまま、現状のような第五波が来ており、デルタ株の急速な感染で、非常事態が続き、日本の危機管理の脆弱性を露呈してしまった。昭和の時代には総じて評価の高かった政、官、財の強固なトライアングルの関係があった。しかし「行き過ぎた官邸主導」が官僚や政治家の劣化を招いている。今や政治では政権支持率が低迷し、野党ばかりでなく与党内にも対抗軸が現れず政権獲得にむけたエネルギーさえ感じない。政策の中枢ともいえる官僚も内閣人事局の創設により官邸主導人事により萎縮し、政権への忖度がにじみ出て閉塞感が漂う。かつて経済一流といわれ、その牽引役だった企業群は苦戦が目立ち、世界に誇れる企業は驚くほど少ない。平成の初期まで多くの日本企業が時価総額の上位に登場し世界をリードしたが、今では米国、中国企業が上位に位置し、日本の企業は見る影もない。世界における日本の存在位置は確かに後退してしまった。
今回あえて、コロナ禍、五輪の状況を、「日本はいつの間に後進国になったのか」を結びつけてみたのは、イソップ寓話のウサギのように(傲慢に・うぬぼれて)のんきに昼寝をし、いつの間にか亀(発展途上国)に抜かれてしまったことさえ知らずに、米国傘下になり下がり、平和ぼけした日本の政界・官界・財界・さらに国民の現状認識であると危機感を覚えたからである。大部分の国民が高度成長期の日本の存在位置がまだ続いていると勘違いしていると思われる。世界から見て今や、ジャパン・イズ・ナンバーワンではないのである。
明治や戦後などの歴史を振り返れば転換期の改革は若者が主導した。コロナ禍に加え、気候変動やデジタル化の加速など社会は大転換期にある。若者が躍動した東京五輪の場合、五輪へ出場した代表選手は、実力で国内予選を突破したトッププレイヤ―達である。日本はあらゆる組織で年次主義や年功序列がはびこり、組織に拘束されて若者が萎縮したり、若い才能の芽が摘み取られたり、能力が発揮されないまま停め置かれていることが無いであろうか。今すぐにできることは政、官、財すべての組織で年次主義や年功序列型人事から脱却して、能力のある者、才能のある若者を早く見つけだし、活躍する場にデビューさせるべく抜擢人事を断行すべきであり、チャンスを十分に与えるべきである。躊躇している時間は無いのである。
この転換期の改革を、次の時代を作りあげ、そして活躍する若者たちに夢を託すのもひとつの選択肢ではないかと、短絡的ではあるが、東京五輪の若者たちの活躍を観ながら考えてみた次第である。
こんなことを議題に大学や大学院で皆さんと議論してみたいと常々考えていたことを、今回は書いてみました。
以上
2021-8-15(2021年度入学)村田耕次
今年(2021年)4月に商学研究科に入学し、会社員時代から興味のあった「国際ビジネスコミュニケーション」「異文化経営」「異文化理解」などを研究しようと貿易系列の塩澤ゼミに入った。はるか昔の大学生時代は、大学に入ることだけが目的化していたので、大学に入っても勉強する意識が低く、何を勉強していいかもわからない未熟な学生だった。しかし、今回の大学院は学ぶことが目的であり、学びを通じて会社員時代のビジネス経験も学問的に検証できたりするので、なかなか面白い。大学生の時は、正直言って、授業をいかにさぼるかが関心の中心であったが、大学院では、「授業」なるものに初めて真面目に出席し、しかも(当然ではあるが)一度も欠席せず、予習もし、発表の為のレジュメも作り、少し復習もしたりして、お陰様で充実した春学期を終えることができた。今は久々の学生気分の夏休みに一息ついているところだが、この機会に春学期を振り返り、新入生として「学び」の場で得た「気づき」を記してみたい。
1.言い切る習性
会社員時代は何事も「言い切ること」が大事と教えられてきた。確かに、上司やお客さんに説明する時に「よく分からないが…だ」「こういう考え方もあるようだ」とか、腰の座らない説明をしたら説得力もないし信用も無くす。50%以下の確証でも100%大丈夫という形で言い切らなければ、話が前に進まない。言い切ることによって相手にインパクトを与え交渉を有利に進める、というのが昭和のビジネスパーソンの一つのスキルだったような気がする。
ところが、学問の世界ではそうはいかない。大学院の授業中に根拠のないことを説明しても先生には響かない。「その根拠は何ですか」「立証できますか」と質問を受ける。「いえ、一般的にそう考えられているのですが…」などと、(そんなことは常識的にわかるでしょ、わかって下さいよ…)と心の中で訴えながら答えてもそれ以上議論は進まない。
私のような猪突猛進型は、会社では、適当に考えた仮説をいかに結論として言い切るか、自分の意見や思いをいかに自信持って主張するか、が重要で、その言い切り方によって評価されたりした。(そういえば、巷に溢れる書籍やテレビのコメンテーターにも言い切り型は多いように感じる。)しかし、大学院では、問題意識を基に先ず問いを立て、仮説を主張し、それを論証・実証して結論を導く、これが研究の進め方の基本であり、論文の書き方だと教えられる。自分の意見を絶対的に主張するのではなく、自分の考え方こそ相対的に評価し、客観的に立証することが求められる。今までの私の手法とは真逆である。(学問とはまだるっこいものだな)と思ったが、会社員時代に長年培った「言い切る習性」はここでは通用しない。新入生としての最初の「気づき」である。途方に暮れながらも、現在、学びの世界に通用する緻密で論理的な頭脳への転換を図っているところだが、その道のりは長い。(因みに、本稿は「言い切る習性」で書いている。)
2.異文化理解力と英語力の優先順位
これは、エリン・メイヤーの「THE CULTURE MAP」(2014年)と邦訳版「異文化理解力」(英治出版、2015年)である。本書はビジネスの場での各国の異文化を相対化し可視化したとして日本でも話題になった。私は、邦訳本の帯に記された「世界で活躍するために、語学より大切なこととは?」というキャッチコピーに引っ掛かりを感じた。原書は、異文化理解を主題として種々論じているが、邦訳本の帯が示すような異文化理解と語学の優先順位については全く述べていない。日本人にとっては、異文化に接する時、相手との言葉の壁を感じることが多いので、異文化理解と同時に言語力(一般的には英語力)が大きな関心事であるが、英語ネイティブスピーカーである原著者は、本書において、異文化理解における言語力について関心を示していない。
私がこの帯を見て「おや?」と思ったのは、この本を読んで日本人が英語力よりも異文化理解力の方が重要だと解釈するかもしれない、と危惧したからである。国際ビジネスコミュニケーターを標榜する私としては、そのような解釈は正しくないと考えている。本書に共感するあまり、国際ビジネスコミュニケーションおいて必要な、もう一方の能力である英語力を軽視してはいけない。異文化理解という言葉に釣られて英語力強化から逃げてはいけない、と思ったのである。
今年6月のイギリスでのG7で一人ポツンした姿が報道された某国の首相と比べ、チームメートに積極的に話しかけ、チームにもファンにも溶け込んでいる日本人メジャーリーガー大谷翔平は遥かに異文化理解力が高いと評価できる。我々日本人は異文化理解において大いに大谷を見習いたいものである。でも、そんな大谷でも英語力については通訳を必要としているのが現実なのだ。異文化理解力だけでは十分なコミュニケーションはとれない。
結局、異文化理解力と英語力に優先順位はないのである。日本人にとって英語は異文化そのものなので、英語力を高めることは異文化理解に通じるし、異文化理解力を高めれば英語力向上の早道となる。両者は一体となって国際ビジネスコミュニケーションの力を支える。どちらも疎かにしてはいけない。同等に必要で同等に優先されるべき能力だ。この「気づき」が国際ビジネスコミュニケーションにおける「学び」の出発点である。
3.海外出向者の現地適応と本社集権のバランス
日本企業の海外進出としては、近年、既存の外国企業を買収するなどのM&A事例が増えているが、このような場合、国際経営における組織設計として、「現地適応」と「本社集権」のバランスをどこに取るべきか、は常に存在する課題である。一方、この状況と同様に、買収した外国企業へ派遣される出向者にとっても、「現地適応」と「本社集権」の二元性ディレンマは、現地出向したとたんに降り懸かってくる大きな課題である。
左の図(浅川和宏『グローバル経営入門』 日本経済新聞出版社、2003年、264頁より引用)は、海外駐在員のタイプを「現地オペレーションへの忠誠心」(現地適応)と「親会社への忠誠心」(本社集権)の程度の差によって分類しマトリックス化したものである。
このマトリックスは、私自身の会社員時代の経験から考えても、海外駐在員や海外出向者の現地での二元性ディレンマをまさに表しており、思わず膝を打つ。改めて感じる「気づき」である。企業の場合は、その事業に対する全体戦略を基準として、業界の特性や企業固有の強みなども考慮しながら「現地適応」と「本社集権」のバランスを取るべきとされているが、海外出向者の場合も同様の要素に基づいて、現地寄りか本社寄りか、バランスを決めるべきと思う。
日本企業が自社の海外支店を設立して海外展開を始めたひと昔前は「心を本国においてきた駐在員」が主流だったと思うが、その後、海外現地化が進み、「自らを二重市民と見なす駐在員」が理想となり、今は、外国企業を買収する時代であり、本社からの自立度が高まり「現地への土着化をはたす出向者」や高い専門能力を持った「自らをフリーエージェントと見なす出向者」が肯定され始めているのではないだろうか。日本企業の海外展開の進展につれ、現地への派遣人材が「駐在員」から「出向者」へと変わり、人材のタイプも変遷し、「現地適応」と「本社集権」のバランス軸にも変化が生じているように思う。
この「気づき」を今後の「学び」へのヒントとしたい。
以上、思いつくままに書いてきたが、字数が尽きてしまったようだ。今後、これらの「気づき」を「学び」へと繋ぎ、仮説から立証へと展開できる発見があればベストと思うが、果たしてどうなるか。
2021-08-01(2015年度入学) 鈴木 佳光
厚生労働省の2020年3月5日付のHP「横浜港で検疫中のクルーズ船の乗客・乗員に係る新型コロナウィルス感染症PCR検査結果について」によると、2月3日に横浜港に到着したクルーズ船「ダイヤモンド・プリンセス号」については、海上において検疫を実施し、3月1日にすべての乗客、乗員の下船が完了しました。これまで延べ人数で公表しましたPCR検査の結果について、実員数で精査した結果を下記の通りお知らせします。
乗客・乗員(2月3日時点)3,711人
内PCR検査対象者 3,618人
内陽性者696人(乗客:552人、乗員144人) と。
「3月16日(月)緊急会見でマクロン大統領のロックダウン・
外出禁止宣言」
このようにコロナが拡大し始めた昨年3月上旬に、予約していたエール・フランスのフライトを何度もキャンセルを試みたものの、窓口と連絡が取れず、やむなく感染リスクを覚悟の上でパリに行きました。以下体験談です。
2020年3月7日(土)
10時過ぎ、出発。荷物は大きなトランク2個とリュック。羽田国際空港の旅行者は少なく、直ぐにチェックインを終える。保険を掛け、イミグレを通過、両替や買い物をしていると、最終搭乗案内がある。乗客は、50人程度か?機内では、シャンパン、日本酒でゆっくりランチ、間も無く夢見心地。しばらくして、突然の機内放送で目が覚めると、キャビン・クルーが体調不良になったので、乗客に医療関係者はいないかと問う?まさか、コロナかとも思ったが、その後は何のアナウンスもなく、CDG(シャルルドゴール)には約12時間後に到着する。通常イミグレは20〜30分かかるが、一番目に通過、荷物もすぐ出て来る。空港内ではほとんど誰もマスクはしていない。旅行会社のスタッフと出口で待ち合わせ、ホテルに20時頃到着、娘一家が待っていた。今回はコロナのため、入国後はホテルに滞在することにした。宿泊客は少ないようで、料金は朝食付きで12泊で約1,500ユーロ(1ユーロは約130円)。風呂上がりに、免税店で買ってきたシーバスと娘が持ってきた手作り弁当を食べる。時差ぼけのようで就寝後3時間で起き、朝まで目が冴えていた。
3月8日(日)
朝食後、スーパーに買い物に行く。街中では誰もマスクはしていない。赤ワインとシャブリ、缶詰などを購入。孫がサッカーの朝練を終えてから、10時半過ぎに一家で来てくれた。渡仏の目的のひとつは、孫娘の保育園の発表会を見に行くことだったが、コロナのことがあり、今日の発表会は辞退した。11時半ごろ、フロントから連絡があり、部屋の清掃をするというので、散歩がてら、エッフェル塔の近くのショッピングモールに春用ジャンパーを買いに行く。この時期、結構冷える。とりあえずマスクはしないが、なるべく人との距離をおいて行動する。帰りに小雨にあったが、ベトナム料理店で春巻きをテークアウト、ホテルで白ワインとイワシの缶詰でちょっと一杯のつもりが、1本空け、約3時間の爆睡となった。夕方、発表会が終わったと連絡があったが、時差ぼけが治らず、ホテルでのんびり過ごす。
3月9日(月)
昨夜はよく眠れた。朝6時過ぎに目を覚まし、7時に朝食へ。8時前に散歩がてら、娘一家の住むマンションに出かけたが、孫たちが出てくる様子はない。一旦、ホテルに戻る。今日は二人ともに学校を休ませたと連絡が入ったので、10時過ぎに再度、外出する。近くの公園の桜と池のカルガモの様子を見て春を感じ、帰りに、惣菜屋と肉屋に立ち寄ると、月曜日は休みであった。ホテルに戻り、パソコンを開くと、バッテリーの残量が約40%なので、娘の家にパソコンを持って行き、充電を頼む。帰りにスーパーに立ち寄り、惣菜、チーズを買ってホテルに戻る。そして、赤ワインをチビチビ飲んで昼寝。17時にパソコンを取りに行く。帰りにバゲット(フランスパン)を買って戻る。
3月10日(火)
8時過ぎから朝食。その後、近くの公園を一周して、セーヌ川沿いにエッフェル塔を見ながらのぶらり散歩。戻るとまだ部屋は片付いておらず、ロビーで過ごす。娘が13時頃来て、知り合いの日本人が働いている近くのフレンチレストランでランチ。13時半でもほぼ満席。狭い店なので、コロナ感染を心配するが、今までマスクをしている人はほとんど見かけず、フランス人は友人と会うと必ずハグ(ビズー)するので、この習慣もコロナ感染の原因ではないかと思いながら、今日は結婚記念日(41年)だと気がつき、娘とのランチは良い思い出になる。ワインを飲んだので、ホテルに戻ってちょっと昼寝。娘が18時過ぎに夕食を差し入れてくれた。
3月11日(水)
朝8時過ぎに、マンションに行く。マスクはしない。15分過ぎに4人が出てくる。今日は、孫娘は息子と週に一度の日本人保育園に行き(他の4日は近くの現地保育園)、娘が孫をインターに送っていく。フランスでは学校に子供を一人では行かせず、必ず送り迎えをする。その後、娘がホテルにウィークリー・フリーチケット(7日間バス・トラム(路面電車)・地下鉄乗り放題)を持ってきた。パソコンの充電のため一旦マンションに行き、その後、近くのマルシェでホタテ、若鶏の丸焼き、牡蠣を買い、ホテルに戻り昼食、のんびりする。18時頃連絡があり、パソコンと夕食を取りに行く。
3月12日(木)
雨模様だったが、10時頃には雨は止み、フリー・チケットを使って、午前はトラム3号を終点まで往復する。午後はトラム2号を往復して、エッフェル塔や桜が咲いている駅の風景を撮って戻る。もう娘のマンションに短時間なら滞在しても良いと判断し、渡仏後初めて、娘一家と夕飯を共にする。20時からマクロン大統領の国民向けテレビ演説が始まる。「来週から学校は閉鎖。コロナは100年に一度の世界的な危機で、3月の納税期限は延期し、大幅な財政出動も実施する。明日、トランプ大統領とG7の一員として対応を協議する。但し、公共交通機関は現状を維持、週末の地方選挙は実施。イタリアでは死者が千人を超えたが、我国は61人」などが主な発言であった。
3月13日(金)
晴れ。今日は一週間分の洗濯物を娘と近くのコインランドリーに持って行く。洗濯・乾燥仕上げまで一時間ほどかかるというので、近くのマルシェで買い物。ラパン(うさぎ)を購入する。ホタテも買い、一旦マンションに行く。軽めのランチの後、パリで有名なスーパー「モノプリ」に行く。昨夜の大統領のスピーチで、買いだめが発生しているのではないかという人間行動の観察が目的。案の定、大勢の客が、商品を買いあさっていた。夕方、買い物に出かけたが、パン屋は2軒とも商品全て売り切れ。19時半頃から娘の家で夕食。ラパンのワイン煮込みを味わう。
「マルシェのラパン売り場」
3月14日(土)
8時45分頃、乗馬スクールへ。孫は今日の馬との相性はいまひとつのようであった。スクール周辺の馬乗りでは、途中で馬が道沿いに生えている草を食べ始め、手綱捌きが上手くいかず、随分遅れて戻ってきた。その後、小雨が降り出したので、早々に家路につく。途中マルシェに立ち寄り、野菜や牡蠣やハムやチーズを買い込む。
「乗馬クラブの様子」☞
3月15日(日)
レストランに7時過ぎに行ったら、客が一人もいない。接客係りの女性に聞いたら、2本の指を出したので、宿泊客は2人か。ホテルの前のバラド駅では、トラムを待つ人はほとんどいない。9時過ぎにスーパーに買い物に行く。戻ってパソコンを見たら、フランスの14日現在のコロナウィルスの死者は91名で、木曜日のマクロン大統領のテレビ演説時の61人から30人増加した。
3月16日(月)
今日から学校が休みのせいか、街全体が静かである。朝7時過ぎにレストランに行くと、ブッフェにしては、ゆで卵が6個しかでていないし、サラダ、ヨーグルトがない。料理長らしき人が来て、料理の品数の少ない朝食で申し訳ないというので、宿泊客は何人と聞くと3人という。ヨーグルトをオーダーし、ゆで卵は2個持って帰る。娘から連絡があり、マンションに来るかと聞かれたが、今日から孫のオンライン授業が始まるので、15時頃に行くと返事をして、テレビとパソコンで過ごす。昼前、買い物に出かけたが、パン屋は長い行列であった。スーパーに向かう途中で、息子にばったり会ったら、今日からテレワークという。大勢の人が1−2M間隔を開けて、レジに並んで、時間がかかりそうなので、諦めて、マンションに戻るところだと言う。私は、近くのパン屋でバゲットを買ったが支払いは間仕切り越しであった。さすがに今日は何人かのフランス人はマスクをしている。日用品は早めに手当てしたほうが良いと日本大使館からメールが入る。夕方、娘のマンションに行く。当初帰国予定の19日(木)の昼便は欠航となり、同日の深夜便に変更になっている。
20時からのマクロン大統領の緊急テレビ演説では、明日の午後からロックダウン、外出禁止という厳しい対応になった。違反者には135ユーロの罰金。地方選挙も中止。
Air France フライト情報 2020.3.14.4:33
airfrance-klm@connect-passengers.com
ご予約いただいたフライトが欠航になりました。AF0272パリ (Paris) - 東京 (Tokyo)
03/19/2020
Here are the details of your new booking.
From Paris (CDG) To Tokyo (HND) AF0274 Departure 19MAR 23:20 Arrival 19:25
3月17日(火)
朝からホテル5階のフロアーが騒々しい。宿泊客がチェックアウトを急いでいるようである。午前中しか行動出来ない影響かと思う。7時過ぎにレストランに行ったら、ブッフェスタイルではなく、3M位の間隔でプレートが用意され、昨日までの対応とは明らかに異なる。娘が8時頃来て、マンションに来ないかというが、ホテルは閉鎖しないし、朝飯は出るので、ホテルにいる方が迷惑をかけないと思い、ホテルで過ごすことにした。ホテルは自分で好きなものを手当すれば、社員用の冷蔵庫も電子レンジも自由に使っていいというので、娘とカルフールに買い物に行き、卵、カップ麺、イチゴ、冷凍寿司、みかんなどを買い込む。予想はしていたが、このような外出禁止はなかなか体験できない。ホテルは19日夜出発まで部屋を使っていいというので、車の手配は19時半でオーダーする。ホテルの5階から外を眺めると、車やトラムが通るだけで、人影はほとんど見かけなくなった。
3月18日(水)
外出禁止発動2日目で、街は朝からガラガラ。レストランから朝食を部屋に持ち帰るが、味気ない。曇りがちな天気も、ちょっと気が滅入る。送られてきていたHさんの力作『東アジアを支えた日本、そして隣国』・『商人が作った江戸時代』をこの2日間で読破しようとパソコンに向かう。原則外出は出来ないが、娘が「外出理由書」を持ってきてその用紙に該当項目を記入し、パスポートのコピーを持参していれば、短時間の外出は可能という。「必要な買い物」・「テレワークが出来ないための出勤」・「緊急の病院」・「家族に会う」など。夕食は娘のところで、牛タンにサラダ、フォンデュー、ビール、シャンパン。20時頃いきなり物凄く騒々しくなった。拍手・喝采が聞こえる。これは、近くに病院があり医療関係者の交代時にこのような激励と感謝の行動が行われるということで、近所のマンションのベランダから大勢の住民が顔を出しているのが見えた。
3月19日(木)
「日本政府は外国からの入国に際し、邦人、外国人を問わず、3月21日零時から、空港から公共交通機関を使わずに、自宅やホテルまで自身で移動し、2週間そこで待機すること」という発表をしたようだ。帰国便は20日の19時半羽田到着予定にて、なんとかセーフとなりそう。
この日の宿泊客は私一人になり、レストランの厨房に声をかけたら、パンとチーズとハムとヨーグルトとフルーツのデザートとカフェを持ってきてくれた。娘から朝の散歩と買い物を誘われ、昨日使った「外出理由書」の日付を書き換え、ホテル周辺を孫娘と三人で散歩する。行きつけの肉屋が開いていたので、若鶏の丸焼きをカットしてもらい、半身と焼きジャガイモを買い、お昼はホテルで少し残っていた赤ワインとウィスキーで済ます。
今日も孫は授業と日本語の補習をオンラインで行なったという。午後、マンションに行き、静かに勉強の様子を見ていた。フランスでは3歳から義務教育がはじまり、4歳の孫娘も今日は課題が入り、小麦粉、バターなどを使ったケーキを親子で作ったという。その後は、折り紙を切って、輪にして、七夕飾のような長い輪を一生懸命のり付けしていた。
18時過ぎにホテルに戻り、帰り支度をすませ、チェックアウト、19時過ぎに早めに迎えの車がきた。30分ほどで、空港に到着、空港内はガラガラであった。CDG空港は、免税店もほとんどがクローズ。チェックイン、イミグレはすぐ終わり、ラウンジに着く。娘に搭乗手続きを終了したことを知らせ、羊と人参の煮込み、チーズ、ワインで軽めの夕食をする。
パリでは、散歩、マルシェ・スーパーでの買い物、ワイン、昼寝など、ほとんどは普段通りの生活でしたが、マスクなしの人々の日常行動に驚き、けっこう緊張感のある旅でした。
☜「買い物客の行列・・・マスクなし」
La fin
2021-7-15 (2016年度入学) 新貝 寿行
(近況)
従来から興味のあった経営史を学ぼうと、商学研究科を卒業した2019年の4月に経営学研究科に入学したが、昨年秋学期からは休学中。理由は義弟が運営する医療法人(仙台:看護師などスタッフは約100名)がコロナ下で緊急事態となり、その経営を昨年夏から本格的に手伝うことになったため。関連機関(医師会、保健所、市役所)との調整、スタッフの健康状態チェックや出勤管理、日々の資金繰り等仕事は山積みで、特に宮城県のコロナ新規患者が急増し、まん延防止措置の対象となった4月~5月にかけては連日遅くまで仕事に忙殺された。このため新聞を開く時間もなく、毎日のニュースはTVかネットで見出しを確認するだけの日が続いた。
その後、宮城県の新規患者数も落ち着き、また医療法人の決算・予算作業、スタッフへの賞与支給準備なども終わり、少し時間の余裕が出た先日、久しぶりに日経新聞を開くと、旧知の記者ジリアン(Ms. Gillian Tett)のコラムが目に飛び込んできた。
(ジリアン)
日経新聞社(日経)は2015年にイギリスのファイナンシャル・タイムス(FT)を買収しており、同紙の記事やコラムも翻訳の上、定期的に掲載している。その日のコラムの執筆者はジリアンだった。肩書は「米国版エディター・アット・ラージ」。わかりにくい肩書だが、日本の新聞社でいえば論説委員になるのだろうか。彼女のコラムは数年前からほぼ月に1~2回のペースで掲載されており、私も楽しみにしてきた。
彼女はケンブリッジで社会人類学を専攻してPHDを取得したが、卒業後はジャーナリストを目指してFTに入社、1997年に特派員として日本に派遣された。その時、銀行で広報を担当していた私にも取材の申し込みがあり、それ以来、何度か取材で対応することとなった。2000年には東京支局長となり、その後ロンドンに戻った後、2010年にアメリカ版編集長、そして今の肩書となっている。近年も日経の招きで度々訪日しており、2015・2016年のセミナー(日経フォーラム)にはメインパネリストとして参加し、この時、私も久しぶりに再会することができた。
また、彼女には日本での駐在経験を基にした興味深い著書がある。「セイビング・ザ・サン : リップルウッドと新生銀行の誕生(2004)」と「サイロ・エフェクト: 高度専門化社会の罠(2016)」がそれだ。最初の本は日本長期信用銀行の国有化の背景を、もう1冊はウォークマンで先行したソニーがなぜアップルの追撃を許し大きく後れを取ったのかを取り上げている。
( ポール・ボルカー : Paul Volcker)
ジリアンはイギリスで複数回にわたる「年間最優秀ジャーナリスト」のほか「年間最優秀コラムニスト」にも選ばれている。彼女のコラムの特徴は特定の個人に焦点を当てながら金融・経済の問題点を映し出す点にある。社会人類学のPHDらしいアプローチでいつも感心させられる。これまでの彼女のコラムで最も印象に残っているのは、少し前(2018/11/1)になるが、元FRB議長のポール・ボルカーに関するものだ。
注:ボルカーは「FRB議長時代のインフレ退治」と「リーマン・ショック後に金融機関の高リスク投資を制限するボルカー・ルールを
提案」したことで有名。
そのコラムの一部を引用したい。
― 私は10月中旬、心動かされる招待状を受け取った。あの伝説
の元FRB議長、ポール・ボルカー氏が同氏の自宅で、自分の残
したいものについて話したいというのだ。
― 驚くのは、彼が次世代に残したいメッセージとしてトップに挙
げるのは金融や経済ではない点だ。それどころか「自分として
は、パブリックサービス、つまり公務員の仕事の重要性を理解
してくれることを何よりも望むと」と強調する。
― 20世紀には、政府は価値あるものと社会が受け止め、人々の
支持を受けるべきものだという考え方が浸透していたが、これ
が21世紀が進むに従い、特に米国で廃れてきていると同氏は
感じている。「私が育った時代は、『良い政府』というのは皆
が響きのいい言葉だと捉えていた」と話す。1950年代にはパ
ブリックサービスは尊敬を集める仕事とされ、プリンストンの
ような大学では行政は重要な学問と見なされていた。
― 「しかし今や『良い政府』という言葉は、あざけりの対象でし
かない」と嘆く。ボルカー氏のように何十年も行政に携わる仕
事をして、高額報酬を得られる機会を棒に振るような学生は今はほとんどいない。
当時のトランプ政権では行政機関の主要ポストが長期間空席だっただけでなく、大統領がたびたび政府機関を批判・攻撃し、「行政機能がマヒ状態」との報道が続いていた。
(日本の行政は)
日本でも公務員のレベル・モラル低下が指摘されて久しい。2018年の森友学園をめぐる財務省の決裁書改ざん、2000年の検事長の賭けマージャン、今年には総務省接待問題、更には経済産業省キャリア官僚によるコロナ関連給付金詐欺などスキャンダルが相次いでいる。こうしたなかで国家公務員の希望者も大きく減少している。2021年度の国家公務員総合職(いわゆるキャリア)試験の申込者数が5年連続のマイナスで前年度比14.5%減の1万4300人、5年前の4万5000人と比べると70%近くの減少となっている。(尚、合格者数は約1700名。)
また、昨年11月に河野太郎国家公務員制度担当大臣(当時)は自身のブログで、若手官僚の退職が急増していることを明かした。具体的には20代キャリアの中途退職数がこの7年間で4倍に増えていること、さらに30歳未満の国家公務員のうち、「すでに辞める準備中/1年以内に辞めたい/3年程度のうちに辞めたい」と考えている割合が、男性で15%、女性で10%いるという調査結果も紹介された。注意すべきは、これらの数値は20代の若手のものだけであり、30代以上は含まれていないことである。
私自身、キャリアの退職について直接耳にしたことがある。昨年暮れに経済産業省OBと会食した時、彼から「経済産業省は総合職の合格者の中でも優秀な人物を毎年50人程度採用しているが、最近、中途退職が急増している。入省20年以内の若手キャリアがこの1年間に23人も退職して大騒ぎになっている。」との話が出て驚いたのを覚えている。私も40年近く前、当時の通産省に2年間出向し、キャリア官僚と共に連日深夜まで国会対策や大蔵省(当時)との予算折衝に当たったが、その時代は国会議員選挙や知事選への出馬以外に中途で退職するキャリアは一人もいなかった。
(コラムの結び)
先に引用したジリアンのコラムはこう結ばれている。
― ボルカー氏の回顧録が出版されることで、政府の信用、人気、力を高めるためにどうすべきかという問
題に関心が集まることを願おう。
注:ボルカー回顧録 「健全な金融、良き政府を求めて」はジリアンの訪問直後の2018年10月に米国で出版された。
ボルカー氏の功績をいろんな人が語り合えば、行政をもっとエキサイティングなものにするためのプロ
ジェクトに資金を出す人たちが現れるかもしれない。我々には、次世代の「ボルカー氏」のような存在
が必要だ。
― しかし、91歳のボルカー氏は、自分がパブリックサービスを巡る議論を見届けられるかどうか疑問に思
っている。筆者が胸につかえたものを感じつつ、ようやく同氏の自宅を去ろうとした時、彼は「私の言
うことに耳を傾けてくれるとよいが、みんな聞いてくれるだろうか」と言った。嘆かわしい事態だが、
これこそ我々が今、取り組むべき課題だ。
(終わりに)
ポール・ボルカーはジリアンが訪問した翌年の12月に92歳で亡くなった。それは偶然にも中国武漢でコロナ感染が発生した時である。それから1年半経過した今でも全世界がコロナ禍に覆われており、アメリカのCDCや日本の厚生労働省などこれまでとは比較にならないぐらい行政の能力が試されている。もし、ボルカーがまだ存命だったら、どのような警告を我々に発するだろうか。
2021.07.01 (2017年度入学) 山口 岳男
今でも年に数回ビジネスセミナーで話をする機会があります。例えば今年の3月にはビジネスブレークスルー大学院大学で一コマをいただいて「会社の変革を成功させるためには」という題目でお話をしました。全員がビジネスパーソンなので質問も活発で面白いです。またこの7月には北海道大学工学系大学院で「企業と仕事特論」の4コマで日本の雇用・労働とグローバリゼーションとリーダーシップの話を、早稲田大学のビジネススクールでゲストスピーカーとして一コマをいただいてM&Aの事例を中心にお話をする予定です。そこで今回 GF-Masterの皆さんにセミナーでどんな話をしているのか、その一部を文章にしてご紹介できればと考え以下の通りまとめました。会社の成否は人、しかもその人にリーダーシップにかかっているという話です。
私の経験から
今日、日本の企業で最も不足している経営リソースは何か、と問われれば、私は即座に「リーダー」と「リーダーシップ」と答えます。グローバルな競争舞台でコンペティターと闘い、自社の成長戦略やイノベーションを実現するリーダー、そのようなリーダーが不足しているということです。ただ、日本の中で日本人だけと仕事をしていると、このようなことは頭ではわかっていても肌感覚として実感できないのではないでしょうか。
リーダーシップの開発やリーダーの育成については、各社各様それなりの投資をし、種々取り組みをしていると思います。しかしどのようなリーダーを必要とするかを実感として持たずに単に想像したことを頭に描いたたけのプログラムをロールアウトして本当にリーダーが生まれるのでしょうか。
みなさんは主として人材マネジメントや人材育成に関わっている立場にいたり、あるいはビジネス責任をもつ立場にいるものと思いますが、重要なことは、「自分がグローバルなリーダーとなる」と決心することだと思います。そしてこれに向かって努力してみることだと思います。
その努力の中から、どういう風にすればリーダーを育成できるか、ということがより具体的に計画できるようになるとのだと考えます。
リーダーシップの差を実感する
私がリーダーシップについて真剣に考えるようになったのはある時期の出来事がきっかけです。話は20年近く前に遡ること2001、2年頃のことでした。当時日立はIBMからハード・デイスク・ドライブ (HDD)のビジネスを買収しようと交渉にあたっていました。私は人事の立場で日立側交渉チームに入って、IBMの交渉チームと交渉をすることになりました。私にとって買収の仕事は初めてであり何から何まで手探りの状態で進めざるを得ませんでしたし、最終的には二千億円を超える大型買収(当時としては)しかもクロスボーダーの買収であり、交渉のコミュニケーションは基本的には英語と、難易度の高い買収交渉だったと思います。またこの規模の買収は日立にとっても初めてのことで過去のノウハウの蓄積はありませんでした。連日のように行われる先方との電話会議や日立側のコンサルタント、ローヤーとの打ち合わせは冷や汗の連続でした。先方の会社の会ったこともない人たちとの英語の電話会議。その場で意見を聞かれ、質問される。買収される側としては聞きたい、あるいは要望事項が山ほどあったのでしょう。これらを矢継ぎ早に聞いてくる、とその質問に、Yes か No か、しかもなぜ Yes でなぜ No かを問われる。答えられずにバツの悪い沈黙が私を何度自己嫌悪に追いやったことか。一方、相手を見れば質問を上手にかわし、上手に答え、議論になれば双方のチーム内のコンフリクトをさばいてみせるリーダーもいて「流石」と彼我の経験の差、スキルの差、リーダーシップ差を見せつけらることが多かったのです。やがて交渉が進み、買収契約交渉締結に向け Post Merger Integration (PMI)、統合作業が行われることになりました。これは日立、IBM側の総勢100名を超えるメンバーが参加する大規模クロスカルチャルPMIであり、言うなればビッグ・プロジェクト。研究、開発、製造等々各部門毎にチームが置かれ、日立とIBM双方から当事者が参加するものでした。人事部門チームも他の部門と同様、統合に向けての検討なり交渉を行い結論を出していくことになりました。こうした交渉や打ち合わせを通じて気のついたことはなんといっても相手側のリーダーと思われる人たちの立ち振る舞いでした。方向を示し、チームを結束させ、関係者を巻き込み、相手を説得し、そして結果的には自分のチームを有利に導く、そのような、考えてみればあたりまえのことを当たり前にやってみせる、こうしたリーダーが目の前にいるということを会議の中で実感し、こうした人と議論し交渉し説得することが、自分にできるのかと、そして日本側それぞれのチームには互角に戦える人がいるのか、日本人のリーダーシップに、そして自分自身のリーダーシップに大きな懸念を持ったのです。
何も言えない日本人
それでもなんとか、無事買収契約が締結されて日立側のHDD事業とIBMから買収したHDDビジネスを統合した新会社が設立されました。新会社設立ということで従業員の士気も高揚していました。交渉がスタートしてから一年半後の2003年1月のことでした。会社の設立に伴って私はこの年の1月に米国カリフォルニア州サンノゼの新会社(旧IBM拠点)本社に人事責任者として赴任しました。これは私にとって80年代のニューヨークでの日立アメリカ勤務に次ぐ、2度目の米国勤務となりました。
新会社は、IBMのHDD事業部門と、日立の米国におけるHDD販売部門を統合する形で設立されました。そして、3ヶ月後の4月1日には、日立のHDD製造部門であるストレージ事業部が、会社分割法の適用によって新会社の日本法人に統合され、さらにヨーロッパとアジアのセールス部門を含む全ての拠点が新会社に統合されました。新会社の拠点は、日本、米国、シンガポール、フィリピン、タイ、中国、メキシコに広がり、売上約5,000億円、人員規模約30,000名、従業員の使用言語が10種類を超えるグローバル企業となりました。統合シナジーを創出することで、HDD事業での世界トップポジションの確立を目指すことになったのですが設立当初からの大きな経営課題は赤字の解消というものでした。IBMも日立もこのHDD事業では大きな損失を出しており、赤字事業部門同士の統合ですから赤字からのスタートになったのです。会社のスタート早々、ビジネスのプロセスや文化の違う両会社の部門統合をはかる中でどうリストラを進めるか、難しい意思決定が求められ、だからこそ強力なリーダーシップが求められたのです。リストラを計画する中で日米拠点の統合も大きな課題でした。
例えば、ハードディスクドライブの構成部品の中でコアとも言える部品に磁気デイスクと磁気デイスクヘッドがあります。記録媒体と記録を読み書きする部品です。これらは開発設計から製造まで日米の両拠点で行われていました。投資効率や規模の経済などの観点から一箇所に集約すべきだとの意見があり、統合計画をどう策定するか検討する必要があることから、連日、日本側と米国側の担当部門の責任者が電話会議で打ち合わせを行っていました。ある日のこと、米国側の責任者から、いま日本側と電話会議をおこなっているので、人事も出席してくれないか、との依頼があり、この電話会議に出ることになりました。突然の依頼だったので彼のオフィスには出向かず私は自分のオフィスからコールインしました。コールインしてみると、ちょうど、米国側から、「…というわけで、規模からすると米国側が日本側よりも大きいし、投資効率から考えればやはりアメリカサイドに一本化することが重要だと思う。日本側はリストラが必要になるがその対応策としては主要なエンジニアにはアメリカサイドに来てもらい、こちらで仕事をするようにしてもらいたい。それを実現するには…」と言ったところで、私は「途中で入って来て申し訳ないのだが、ちょっと待って。それを決めるのはまだ性急すぎないか。規模だけで決めていいのかどうか。品質とか生産性とかコストとか他の要素は検討済みですか。人のことにしたって日本からエンジニアをアメリカに呼ぶってそしたらテンポラリーではなくパーマネントベースってことになるよね。家族を含めてアメリカに永年在住、これは現実的な解ですかね。」と言って議論を引き取りました。そして検討項目も多くありそうだから、ひとまず今日の会議はここまで、として終えました。この会議では、ほとんど米国から一方的な発言があり日本側からは事実上なかったので、ひょっとして日本側は出席していなかったのか、あるいは途中退席でもしたのかと感じたほどでした。しかし、この電話会議を終えて程なくして、日本側の責任者から私に電話があり、「こんな会議ってありますか。彼らが一方的に話して説明してアメリカに拠点を統合するなんて考えられない。全く検討不足だし、もっと時間をかけて慎重に検討しないといけない。アメリカならリストラは簡単でしょう。でも日本は人の問題はそう簡単には解決できない」等々、彼は私に不満を一挙に吐き出したのです。気持ちはよくわかります。しかし、じゃあ、何故会議の場でアメリカ側の発言を聞いたその時にその疑問を直接発言しないのか、私を説得してどうするのか、会議が終わった後で私に話をして何になるのか、と。
こうしたいわばコミュニケーションの断線が会社のいたるところで起きていたのだと思います。
リーダーが会社を変える
会社発足後数年が経過しましたが会社の業績は好転する気配が見えないまま、赤字経営は続いていきました。これに業を煮やした親会社の日立からは「黒字化、さもなくば事業売却・撤退」と取れる方針を打ち出してきたのを見てその厳しさをひしひしと感じました。様々な施策を打ち出してなんとか黒字化しようとしましたが赤字は止まりませんでした。人事でも数度にわたって早期退職勧奨や解雇を含むリストラの実行や短期インセンティブの見直し等々、実施してきましたが結果として従業員の士気は落ちるばかりで退職率もシリコンバレー並みの高さになっていったのです。こうしたある日、私は会社の退職送別会に招待されて他の仲間と一緒に送別会の行われるレストランへと向かいました。退職するのは長年この事業に携わってきたある開発設計部門の部門長でした。出席者が総勢60-70名もいる大きなパーティでした。食事をとりながらそれとなく聞こえてくる話は家族のこと、家庭のこと、親兄弟や配偶者や娘息子のことなどでした。「息子さん、大きくなったんだね」とか「奥さん、元気にしてるかい」とか「家族みんな元気だよ」など、かなりインフォーマルな親密な会話がそこにありました。その時、「自分は大きな間違いをしていたのではないか。ここはアメリカ、簡単に解雇できるじゃないかと思っていた。だからパフォーマンスがでなければ解雇せよとここにきている部門長に言っていたのです。でもこの人たちみんな家族じゃないか。仲間じゃないか、その人たちに土台無理なことをやらせようとしていたのではないか。」突然、感じたのです。3年経過してそのことにはっきり気づいた瞬間でした。まさにこれは “epiphany” (ある種ひらめき)でした。3年もかかってやっとわかったのか、と言われればその通りです。が、本当に気がつかなかった。その日初めて気づいたのです。そうならばマーケットからしがらみないリストラ専門のベテランを採ろう、そしてその人と一緒にリストラを進めようと決心した日でした。その日を境にそういう方向で進めたのです。
その後、会社のトップマネジメントの了解を得て、最近まで同じ業界の競合他社の人事責任者をしていたターンアラウンド(会社再建)のベテランをCAO(Chief Administrative Officer;最高管理責任者) として採用し、彼を私の直接の上司としました。CAO採用後、程なくしてある人材を競合他社からCFO(のちにこの会社のCEOとなる)として迎え入れ、リストラを実行する体制は急速に構築されていきました。
私の直接の上司となったCAOは会社に毎朝7時には来ており、決まって8時ぴったりの時間に私に電話をかけてきました。”Coffee?” と一言。これに答えて”Yes” と答えて会社のカフェテリアへ。こうして、会社のカフェテリアで仕事がスタートします。昼前の11時40分に今度は”Lunch?” そしてまた ”Yes” と答えて再度カフェテリアへ。昼飯食いながらの打ち合わせ。コーヒーとランチ、これはその後リストラがほぼ完了する2年間、毎日続いたルーティーンとなりました。毎日朝、昼と打ち合わせをしながら経営陣の入れ替え計画や代わりのリーダーの採用や人事から組織まで議論を重ね、計画を練り上げていったのです。CAOの彼とは意見の食い違いや仕事のプロセスや方法論の違いから大激論を戦わせたことも何度もありました。自分の信念で曲げられないものは絶対に譲れない、そういう気持ちもありました。相手の主張に真摯に耳を傾け、しかしおかしいとか変だと思った直感は大事にして必ず口に出す。上司の立場に寄り添うように務める、が決して言われた通りにすることはしない、魂は売らない、これが鉄則だ。このことが最終的には彼の信頼感を得て、聴き耳を持ってもらうことになったのだと思います。何かを計画する際には事前に意見を聞いてもらえたし、私がダメだいったことはやめてもらったこともあります。また、CAOやCFOはまさに強いリーダーシップをもった真のリーダーとも言うべき人たちで彼らと同席する機会や会議が数多くある中で、彼らがどういう言葉を使い、どういうふうに議論をファシリテートし、あるいはチームをまとめたり、反対意見を説得して自分の主張を展開するのか、多くが学びの場ともなりました。振り返れば、これはリーダーがどう振る舞い、リーダーシップをどう発揮するか、そしてリーダーはどうあるべきか、これを観察し学習する良い機会になったのです。
その後起死回生をかけた大胆なマネジメントチームの入れ替えに着手しました。現職を解雇して後任を新たにマーケットから採用する。解雇はまずCOOから行いました。こうして始めたマネジメントチームの入れ替えはこの後1年半ほどで総入れ替えと言って良いほど大規模なものになりました。部門のトップマネジメントのポジションの入れ替えは大きな衝撃をその下のマネージャーや従業員に与えるものでした。そして、入れ替えを始めた期のクオーター(四半期)決算は4年振りに黒字化(この期以降、2011年3月に日立がこの事業をウエスタンデジタル社へ売却するまでずっと黒字継続)と明るいニュースが生まれ、従業員の不安感を徐々に払拭してくれました。
リーダーの行動とは
ただ単に人を入れ替えたから黒字化したと言うつもりはありません。それまで拠点の統廃合、品質価値観の浸透、開発設計のプロセスの変更、SCM改革、組織の変更、インセンテイブの見直し、各種会議の変更等々も並行して行っていたからです。ただ、それまでに仕込んでおいたことが、新たなリーダーのリーダーシップが推進力となり実効果をあげ、結果として黒字化を実現したのです。重くて動かせないと思っていた組織の歯車が徐々に動きはじめた手応えを感じました。人が変わると会社も変わる、リーダーが会社を変える、このことをまさに実感しました。
新たに加わったリーダーたちはどのように行動したのか。
新たに採用した新部門長が Day One (出社第一日)にどのように振る舞うか。まず、間違いなく、朝一で部門の全員を集めて All Hands Meeting を行う。その席で部門長が向こう90日ないしは100日で何をするか、いわゆる100日プランを発表する。この部門で何を実現したいのか、自分の価値観や信条といったものを伝え、ビジネスとビジネスプロセスのレビュー、人と組織のレビュー、等を行ない、100日後にレビューの結果を部門内に伝えることを全員に共有するのである。この間に部門長は自分の目的を達成するために人の見極めをおこない、最もふさわしい人材を確保し自分のチームを構築する。チーム構築の過程で、新部門長のもとでは考え方が違うし自分のキャリを他で作ろうと考えた人は辞めていく。従って、部門長の下のマネジメントレヤーでも人の入れ替えが行われる。このようなプロセスを経てリーダーは成果を短期間で上げるために必要な体制を整えることができ、一方、部下はリーダーが何を求めているか、何をしようとしているかを認識する。日本から来たリーダーはどうか。日本人の場合、どんなに日本では立派なトラックレコードを残して来ているような人でも、大抵はこうした行動をとらない。日本の行動様式を海外に持ち込んでしまうからだ。初日に自分のオフィスにいて、誰かが何かを説明してくれるのではないか、と期待して待っているように見える。日本であれば赴任した初日に部下が、ビジネスから会議からスケジュールからほとんどすべて説明してくれてそれに沿って動けば最初の1、2週間は大抵はどうにかなる。しかし、ここ外国では部屋で待っていても誰もこないのだ。来ないばかりではなく、何も行動を起こさなければ自分たちのリーダーと認めない事態になる。リーダーと認められず、リスペクトされず仕事はできずに終わる。
リーダーの要件
競合他社から採用したCFOやCAOを含むリーダーたちはジェントルマンというよりも ‘Street Fighter’ と呼ぶに相応しい人たちでした。それは外部の競合他社と闘い、内部ではこれまでの慣行や文化と闘うという意味においてストリート・ファイターといえるものです。こうしたリーダーの特徴を次のようなものでした。
• Obsessed and Disciplined 第一の特徴は、何としても勝ち、そして儲けるという執念を持ち、やるべきことはやる、そして約束したことは必ずやり遂げるというレベルの高い規律を持っている。
• Counter-cultural Leadership 第二に、過去にとらわれず、現状維持を容認しない尖ったリーダーシップを持っている。
• Authentic Leadership 第三は本物のリーダーということです。揺るがせない自分の価値観や信念に基づいて行動をするいうことです。 CAOもこうしたリーダーでした。彼が会社に来てすぐ言ったこと一つに、「この会社の立て直しは短期間でやり遂げよう。2年、かけても2年半で勝負、厳しくても必要なことはなんでもやろう。もしこの期間で成果がでなければ諦めた方がいい。」ほぼ2年で会社は黒字軌道に乗り、彼は2年後、リストラを見届けて自分の使命は終わったと会社を去っていきました。
リーダーポジションを獲りに行く
この事例では経営陣の大幅な入れ替えを図ったわけですが、次第に経営陣と幹部は、外部から採用した外国人人材が大部分を占めるようになっていきました。もちろん会社としては部門長などには、専門性や適性を勘案し日本人も同様に活用する方針だったのですが候補に挙がった人材に、ポジションへの就任を要請しても、躊躇し、尻込みする者が多く出ました。たとえ現場から、「この人しかいない」と強く推された場合であっても、当人が「力不足だから」と二の足を踏み、就任に至らなかったこともありました。
一方、外国人は、日本人とは対照的です。特に、カリフォルニア・シリコンバレーの土地柄からか、「自分ならできる」と言って自分を売り込んでいく自信や積極性がはっきりと見られた。例えばCOOが突然辞職した際に間髪を入れず、我こそはCOOに適任である、とわざわざ私のオフィスまで売り込みに来た人物も一人といわす複数人いたくらいだ。もちろん日本人はいない。初めはその違いを、英語能力の差なのかと見ていましたが、やがて、それはより根本的な、日本人としての育てられ方によるものではないかと考えるようになりました。日本人は、貪欲にチャレンジしてポジションを獲りに行くことをしません。その背景には、不確定なものに対してリスクを取りたがらず、自分をアピールすることに対する嫌悪感のようなものを持ってるという日本人固有の特徴なようなものがあったのではないかと思います。この点について、アメリカ人は極めて対照的でポジションへの執着し、自らポジションを獲りに行くことに、全くためらいがありません。
会社の利害を個人の利害に優先させるという「フォア・ザ・カンパニー」という気持ちや誠実で真摯な対応や粘り強さは、日本人の強みとして大きくあるのですが、それは、ポジションを得て実際に物事に取組む機会を得て初めて発揮をされるものです。日本人が、グローバル舞台という日本的な環境の外で、グローバルリーダーとして戦っていくためには、自らがポジションを獲りいく、この世界に飛び込むという意志が問われる。ここに日本人の必ず克服せねばならない課題があるように思います。さて皆さんはこうした覚悟がありますか。」
・・・とこのようにな話をし、その後は経験からの整理した上で「学び」を提示し、テーマを設けてグループ討議なども入れながら進行するわけです。
シニアの皆さんと知り合って話をする中で気がついたのは一人一人がキャリアの中でそれぞれ様々な貴重な経験をされているということです。業界も様々、職能も様々、勤務場所も日本も含めて様々な国あり、ビジネスの最前線で過酷な経験、泥臭い経験とこれまた様々です。こうした生の声をビジネスパーソンはもちろんのこと、ここ明治の学生や大学院生にまとめて届ける場が作れないものだろうかと考えるコロナ禍の今日この頃です。END
2021-06-15
(博士前期課程2014年卒業) 竹内正実
2020年冬に発生したコロナ禍は、航空業界を苦境に追い込んでいる。航空業界の中でも、航空会社は主要事業である旅客輸送需要が大幅に消失し、何らかの公的支援なしには存続できない状況に陥っている。IATA(国際運送協会)によると、航空業界が負ったダメージは大変大きく、回復は2024年度になるとの予測をしている。航空機メーカーは、航空会社の事業縮小による新機材発注が繰り延べとなり、売り上げが激減、旅行代理店は、入出国規制のため旅行客のツアー需要が消滅して、経営の危機に晒されている。その結果、日本の航空会社は減便乃至運航停止を余儀なくされ、航空物流が滞るとみられていた。しかし、実態は航空会社の貨物取扱量は大幅に増加しているのである。その謎に迫るのが本稿の気づきである。
コロナ禍における航空貨物のトピックスは、第一に、日本でマスク・防護服等が不足で困窮しているときに、中国から旅客便を最大利用して【客室にまで貨物を搭載(写真参照)】緊急輸送したことである。第二に、これをヒントに、いち早く積極的に『旅客機を利用した貨物専用便』の運航により、貨物の需要増に対する供給スペース減を補完した。第三に、2021年度3月期決算における貨物事業の収益の多大な貢献、第四に、コロナワクチンの航空輸送である。
航空旅客の需要消失とは反対に、貨物は第1四半期にマスク等の緊急物資の輸送需要が増加し、8月以降は自動車関連部品や半導体・電子機器等の需要の回復に加え、特に第4四半期(本年1月~3月)において海上輸送が好調であった結果、需給の逼迫は継続した。
海上輸送は特にコロナ蔓延で、コンテナの積み下ろし作業が遅滞し、ローテーションが困難になり、その結果船腹が減少し、スペースの供給不足は、海上運賃の高騰を招き、航空貨物へのダイリュ―ジョンが発生した。しかし、そこには、旅客便が多数減便になる中、貨物のスペースをどのように維持するかについての、新しい戦略が必要であった。
日本乗り入れの航空会社130社(本邦10社・外航120社)における、『旅客機を利用した貨物専用便』の事業計画を見てみよう。2020年冬季スケジュール(10月25日~2021年3月27日)では、週間397.5便、2021年夏期スケジュール(3月28日~10月30日)では556便認可されている。(因みにこの動きは、2020年5月3日から9日までの1週間に227.5便の『旅客機を利用した貨物専用便』運航の臨時便の認可から始まっている)
この数字は、旅客消失による旅客便キャンセルを、旅客機に貨物を専用搭載することにより、少しでも便を多く運航し、収入を維持しようとする事業計画とみることができるだろう。マクロでみると、世界の航空貨物は、全体量の半分が貨物専用機、残りの半分が旅客機のベリーで輸送されている。つまり、旅客便が旅客消失のためキャンセルとなると、貨物用のスペースを提供できなくなる。航空会社は試行錯誤の結果、旅客機のベリーのみを利用した運航でも利益が出ると結論づけた。
4月30日にANA、5月7日にJALの2021年3月期決算が発表された。それぞれ、4046億、2866億の大幅赤字が発表され、貨物収入の増加により通期で利益を確保した大韓航空(日経新聞2021.5.15)ほどの迫力はなかったものの、両社とも、貨物収入が大きく貢献した。収入を客体別(旅客・貨物)にみると、ANAは国際旅客447億(前年比7.3%)、国内旅客2031億(29.8%)、国際貨物1605億(156.3%)、国内貨物209億(81.8%)となり、JALは国際旅客279億(前年比5.8%)、国内旅客1740億(32.8%)、国際貨物965億(161.6%)、国内貨物217億(104.9%)となり、これらの客体からの収入総計はそれぞれ、4292億、3201億である。貨物からの収入が客体別総収入(旅客・貨物)に占める割合は、ANAが43%、JAL37%となっている。これらの数字から、いかに貨物からの収入が、決算に貢献したか読み取れる。(2020年3月期決算との比較では、ANAは両客体収入合計が1兆4300億のうち貨物が1364億で9.54%、JALは合計1兆1087億のうち貨物が928億で8.37%)ANAとJALの貨物収入の差は貨物専用機を保持しているか否かによる。(注)
このような状況において、ANAは、本年2月よりファイザー社製の新型コロナワクチンの輸送をブリュッセル-成田空港間で開始した。 4月末まで10機以上運航しているが、1回当りの輸送量の増加により、機材をB787(9)からB777-300ERに変更し、搭載ULD量を、11から14に増やしている。(すべて旅客機を利用した貨物専用便)JALも、同様の運航形式でモデルナ社製のワクチンをB-787-8で4月末にブラッセル-関西空港間で輸送した。ワクチンの普及により安心して生活できる社会の実現に貢献すべく、厳密な温度管理のもと万全の態勢で輸送を行っている。
私は、9年間在学した大学院における研究生活を、今年3月に修了した。研究テーマである「航空貨物の役割の歴史」の資料探しに2-3年続けて、コロンビア大学図書館、ニューヨーク市図書館、ワシントンの歴史科学博物館にまで資料探しに行ったが、資料の事前予約の充実、閲覧個室の確保等日本では考えられない環境を提供してもらった。アメリカにおける研究環境の秀逸さには感激している。
今後の当研究に対する興味は、A.D. チャンドラー.ジュニアの【経営者の時代】が示唆している全天候安定運航を確立した鉄道が、アメリカの経営者を育成し、大量生産・大量流通経済を創造したことに匹敵する、スピード運航を確立した航空が、「速度の経済」により、アメリカ経済・社会をさらに発展させてきたことに絞った研究を待望する。その際の研究テーマは少品種・少量生産が象徴する顧客ニーズを無視できない【顧客の時代】になるかもしれない。
最後に、航空貨物輸送による付加価値は、益々社会経済活動に埋め込まれている。人間の行動様式が変化し、ITの進化に伴う仮想体験やサブスクリプション等が流行っても、物欲がなくならない限り、商品(物)を顧客に迅速に届ける仕組みの追求は、永久に人類の課題となる。今後の航空貨物輸送の発展を注視していきたい。
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(注)JALは、自社の貨物専用機を保持してないが、ANAは、767Fと、777-200LRFを計11機所有している。ANAでは、10月に成田
=フランクフルト線、12月に成田=バンコク線に大型貨物機ボーイング777F型機を就航させた。
オオクラの研究ノート:文学作品『赤毛のアン』分析事例、そしてこれから
-Study Note by odd scholar-
2021-06-01 <2018年博士後期入学>
大蔵 直樹(オオクラ ナオキ)
1. Introduction
若い頃より、親しい友人に「オオクラは、変わっている(odd)」とよく言われた。
研究にはoriginalityが必要と言われるが、オオクラの場合『独創性』に困ったことはない。なにしろ、オオクラのような変わり者(a crank)が『普通(the run of the mill)』に研究を行うと、先行研究がほとんどないような主題の考察を行ってしまう。
『鏡の国のアリス』の中で“赤の女王”が「同じ場所にとまっているのにも、…、少なくとも今の二倍は速く走らなきゃ」と語る。Max Weberが数カ月でロシア語をマスターし2本の長大な論文を書いたとされるが、微分の考え方からすれば計算上は2倍の速度で研究を行えば可能である。ただし、あくまでも机上の話である。そして、オオクラの場合、その時点の研究の歩みの速度を微分して評価することはあまり行っていない。オオクラの持ち味は積分だ。すなわち、幅広い分野の質、および他に比肩すること無き(ohne Gleichen)量の文献サーベイを行い、ロジックを組み立てていくことだ。その意味で、コロナ禍のこの一年は各大学の図書館の利用ができず厳しいものであったが、何とか、何とか、やりくりして研究を行ってきた。
さて、明治大学大学院商学研究科博士前期課程への入学から博士後期課程修了にかけての5年間の来し方の積分を行い、そのmethodological面の到達点を示すものという意味で、Montgomery(1908)の『赤毛のアン』を素材として選定し分析した内容を後記2.に記載させて頂いた。これは、後記3.に述べる今後の実験用素材とするために分析を行ったものである。5年間の総括を行う場合、大きな刺激をいただいた指導教授の中林教授、Toi, Toi, Toiと背中を押し続けていただいた千葉教授や三和教授といった先覚の師との出会いに触れることなくして済ませることはできないが、methodological面にフォーカスした内容とさせて頂いた。
Methodologyの点では、この一年間だけをみても、昨年の1–2月にAPA(アメリカ心理学会)の効果量測定による仮説検定を研究論文に取り入れ、今年の1–2月には因子分析を研究論文に取り入れる、というように生物学でいうconvergent evolutionを成し遂げないと、scholarとしても生き残ることはできないということを実感し、未知の領域に足を踏み入れようとする小さな転換、いわゆるバタフライ効果を肌で感じとった一年であった。オオクラが「効果量測定による仮説検定はlaw of contradictionに統計学上の根拠を与え、因子分析はlaw of identityに統計学上の根拠を与えるもの」と言えば、Aristotleもビックリされるかも知れない。しかし、5年間、研究岳をひたすら登り続け、現在執筆中の論文には論理学の視座も取り入れるなどの試行を重ね、5年前には見えていなかったCiceroやAquinasが見ていたものが今、視野に入りはじめている。これは不思議な感覚だ。若い頃、スポーツで「少しでも上を」と目指していた時の感覚に近い。
ところで、昨年末、積み重ねの威力と無力さを同時に経験した。読響の『第九』をビデオにとり、大晦日に再生した。『歓喜の歌』の合唱の場面で、テレビに映るドイツ語の字幕が自然に頭に入ってくることに驚いた。かつては音としてしか、認識できなかった。字幕は分かるのだが、合唱する人たちの歌詞(ドイツ語)の内容は全く聞き取ることができなかった。相変わらず『音』でしかなかった。ドイツ語会話の積み重ねを行っていないから当然であろう。字幕の読解は、ドイツ人も避けるというFraktur書体のドイツ語古文献読解の継続、Campbell(DOI:10.1177/107808747100700202)のいうtalent continuumの威力であり、現在バイアスの克服の成果に該当する。
とは言うものの、経済小説家黒木亮の「限界は自分が思う10倍くらい先にある」(日本経済新聞 2021年4月23日 夕刊2面)という言葉には参った。前置きが長くなった。本題に入ろう。
2. Analyses
昨年8–9月にNHKでカナダTV局制作の『赤毛のアン』の10週連続の放映を観た。おもしろくて次週が待ち遠しくて仕方がなかった。この面白さの秘密を解明し、実験用素材として創発、活用しようと考え分析を開始した。オオクラは、著者Montgomery がShakespeareの手法を採用していることが、その秘密なのではないかと考えた。
(1) Previous Study
Montgomery はShakespeare作品からの引用を数多く行っている。分かりやすい例として、『アンの青春“Anne Of Avenlea”』(『赤毛のアン“Anne Of Green Gables” 』の続編の第18章(Chapter XVII)I: An Adventure on the Tory Road)に、“all's well that ends well”(終わりよければすべてよし)との引用がされていることを指摘できる。
MontgomeryがShakespeare作品から引用を行っていることに関する先行研究としては、松本侑子(2001)『赤毛のアンに隠されたシェイクスピア』(集英社)が秀逸である。とにかく、『赤毛のアン』をはじめとするMontgomery作品がこんなにもShakespeare作品から引用を行っている、との綿密な調査結果が示され、刺激的である。松本侑子(2001)の研究の成果から、オオクラの研究への援用および応用に結び付く理論的な枠組みを導出できないという点において、変わり者のオオクラとしては、やや物足りなさを感じてしまう。しかし、近所の図書館にてお借りいただきご一読いただければ、コロナが収束したならば、ぜひ一度Shakespeareの生地Stratford-upon-Avonを訪れてみたい、カナダのPrince Edward Islandの旅行ツアーに参加してみたい、と思うこと必定である。
(2) Hypotheses
『赤毛のアン』の分析のため、帰無仮説(the Null Hypothesis: H0)および対立仮説(the Alternative Hypothesis:H1)の措定をおこなった。
帰無仮説(H0): 『赤毛のアン』は、Shakespeareの対比の手法から独立している。
対立仮説(H1): 『赤毛のアン』は、Shakespeareの対比の手法と関連性がある。
(3) Testing
仮説検定のため、『赤毛のアン』全38章を対象に、オオクラが、これまでリスクマネジメントに活用できるとして導出してきた5つのリスク感性(CS:時間的先行性をもつ原因に係る感性を『徒然草』より導出、LA:先々を見据える感性を『論語』より導出、BT:調和の感性を『君主論』より導出、C&V:対比の感性をShakespeare作品より導出、pp:根源的な原理を問い続ける感性を『訓民正音』より導出)を変数とし、excellently applicableからless applicableまでボルダルールにて評価を行った。その結果は図表1の通り、5つの感性の中でShakespeare作品から導出したC&Vのリスク感性が最高得点を示した。
図表1『赤毛のアン』と5つのリスク感性:ボルダルール得点 (筆者作成)
変数 CS LA BT C&V pp
合計得点 119 97 88 158 110
次に、統計ソフト『R』パッケージの関数vssを活用しMAP基準の測定を行った。The Velicer MAP achieves a minimum of 0.18 with 1 factorと1因子の採用を勧めていることの確認を行った。さらに、統計ソフト『HAD』(清水裕士、2016)のFAを選択し、各変数のfactor loadingおよびcommunalityの測定を行った。図表2のとおり5つの感性の中でShakespeare作品から導出したC&Vのリスク感性が、絶対値でみて最も高い値を示した。
図表2 『赤毛のアン』と5つのリスク感性:MAP基準 (筆者作成)
変数 CS LA BT C&V pp
factor loading -.449 -.369 -.449 .999 -.297
communality -.202 -.369 -.202 .999 -.297
図表1および図表2の計測結果は、いずれも5つの感性の中でShakespeare作品から導出したC&Vのリスク感性が、『赤毛のアン』の特色を最もあらわしているとの解釈を可能にするものである。
そこで、より具体的な検証のため、APAが推奨する効果量の測定ならびに仮説検定を行った。
図表3 仮説検定の効果量の測定および関連性 (筆者作成)
Non-Disagreement Disagreement 計
identified 19 7 26
opposed 4 8 12
計 23 15 38
χ2 5.428 significant χ2(1) 3.84, Cramer's V: .3775 moderate
図表3のとおり、効果量(カイ二乗値:x2 5.428 自由度(1)>3.84)のlevel of significanceから、帰無仮説(H0)の棄却および対立仮説(H1)の支持を確認した。そしてCramer's Vは .3775 という効果量を測定し、関連性の程度についてmoderateという経験的な解釈が成立することを確認した。以上の仮説検定の結果より、『赤毛のアン』にはShakespeareのC&Vの手法、すなわち対比が反映しているとの解釈を行った。
『赤毛のアン』の全38章という数値は、統計学上の正規分布の要件(30以上)を満足させるものであり、十分な母数といえるが、オオクラの手法の加算可測性という特色を活かし、母数を伸ばすために続編の『アンの青春』の全30章も加え、効果量の測定および仮説検定を行った。その結果は図表4のとおりである。
図表4 仮説検定の効果量の測定および関連性 (筆者作成)
Non-Disagreement Disagreement 計
identified 26 11 37
opposed 16 15 31
計 42 26 68
x2 2.486 nonsignificant x2(1) 3.84, Cramer's V: .1912 weak
図表4のとおり、効果量(カイ二乗値:x2 52.486 自由度(1)>3.84)のlevel of significance から、帰無仮説(H0)が支持されることを確認した。そしてCramer's Vも .1912 という効果量を測定し、関連性の程度についてweakという経験的な解釈が成立することも確認した。以上の仮説検定の結果より、『赤毛のアン』および『アンの青春』も含めて検証した場合には、ShakespeareのC&Vの手法が反映しているとは言えないとの解釈を行った。
3 From now on
(1)実験の試行にむけて
学位請求論文において、リスクマネジメントに係る新たな仕組みのsocial implementationの提唱を行った。そのための課題も多く、そのうちのひとつが各種実験の試行である。その実験用素材のひとつに『赤毛のアン』の活用を考えている。そのためには、分析および仮説検定という理論的根拠という礎が必要であると考えているのである。
『赤毛のアン』だけでなく、C&Vを除く残り4つのリスク感性用にも様々なジャンルの文学作品を実験用素材として選定し活用しようと考えているが、その際、いずれも分析および仮説検定という理論的根拠という礎の上に素材創発を行うようにしたいと考えている。
ただしshopenhauer(1851)の「Goetheの作品“Faust”そのものよりFaustの言葉の研究が専らの仕事になりがちである」(オオクラ試訳)との警鐘については、常に根底に置くように心がけているつもりである。
(2)金融保険リテラシー教育への注力
① 金融保険リテラシー論文の執筆および教育用教材の創発
業界として30から40年にわたり蓄積してきたビッグデータがあり、それを活用し、若い世代(大学1年2年生用を想定)の金融保険リテラシーを主題とする論文の執筆を開始している。
米国をはじめとする海外の金融保険リテラシー教育と日本の教育との比較を行った先行研究は数多くあり、いずれも日本の金融保険教育の貧困さを指摘する内容となっている。日本証券業協会の昨年度の個人投資家に対する調査でも、「金融教育を受けたことがある」と答えたのは9.9%に過ぎない。個人投資家にしてこの数値である。
さらに、コロナの問題から、現在、大手町に通える状況ではないため、いかんともしがたい面もあるが、自由に行き来ができるようになれば、論文執筆後の次のステップとして、AI機械学習言語にて教育用ウエブソフトを設計してみたいと考えているのである。若い世代の一人ひとりの個性や能力に合わせAIが説明を行うという金融保険リテラシー教育素材を創発してみたい。うまくいけば、これまでの金融保険リテラシー教育の姿をガラッと変えるものにつながると考えている。
② 商業高等学校用の教科書の「保険」記述内容に係わる論文執筆
こちらも、コロナの問題で自由に、霞が関に行き来できるような状態ではないことから、具体的に進めることはできていない。小学校、中学校、および高等学校(普通科・家庭科)用の教科書の「保険」記述内容に係わる先行研究は存在するが、どういうわけか、商業高等学校用の教科書の記述内容に関する研究に穴が開いている状況である。しかも、商業高等学校用の教科書の記述内容がオオクラからみると「やや問題あり」と指摘せざるを得ない内容なのである。
霞が関に通える状況となれば、歴史的経過、諸外国との比較も行い、示唆および含意の獲得につながる研究を行い発表したいと考えている。
(3)シニア研究者の高松さんと進めている共同研究にむけて
万有引力の法則を発見したNewtonが、17世紀後半、alchemy(錬金術)に熱中し、そして精神錯乱に陥っていたことは有名だ。1977年にケンブリッジ大学で開催されたシンポジウムでSpargoが、Newtonの遺髪を分析した結果として「通常人の10倍の水銀が含まれていた」と発表し、精神錯乱の原因として水銀中毒説を展開した。
Spargo(1977)の主張を、東大寺の廬舎那大仏の金鍍金作業に適用するなら、金鍍金作業員の中に水銀中毒に被災した人々がいるとの仮説は現実味を持つ。しかしその仮説検定には1200年以上も前の史的事実の解明という難関が待ち受けている。なにしろNewtonのように遺髪が残っていないのであるから、古文書より、丁寧に事実を紐解き解明を積み重ねていくしかない。古代史や古文書になじみのうすいオオクラがその解明を行うには、上山春平(1977)『埋もれた巨像』(pp.1–37)に展開される華麗なMethodologyが大いに参考になると考えている。
経済学の視座を通すなら、古代エジプトのピラミッド建設と同じ効果(Keynes、1941、邦訳、pp.147–148)を指摘することが可能であるが、それは本研究の対象外とせざるを得ない。したがって、筆者の研究に際し、とりあえずやるべき第一は、東大寺の廬舎那大仏の金関係の知識3万7000余(『東大寺要録』の詳細の解明、第二には東大寺の廬舎那大仏の金鍍金と『続紀』に現れる「金漆(防錆用)」との関係の解明、第三には高松さんもご指摘されているように、唐、新羅、渤海が東大寺の廬舎那大仏造立をどのように捉えていたかの解明、ということだと考えている。
東大寺の廬舎那大仏造立とオオクラが専門とするリスクマネジメントがどう関係するのかについて述べておこう。東大寺の大仏の造営は8世紀半ばのことであるが、その約1世紀後に『続日本後記』が編纂完成されている。『続日本後記』は仁明朝(833–850)の18年間を扱っているのだが、その中に約200を数える災害(疫病、地震、水旱、風雨、飢饉、噴火等)が記載されている。問題は、その予防対策である。予防対策としては、諸国の国分寺における金剛般若経の転読の勅の発令や、伊勢大神宮への奉幣使を遣わせる、という内容である。すなわち、いうなれば“神だのみ”あるいは“仏だのみ”である。
東大寺の廬舎那大仏も当時の王朝の“仏だのみ”として造営されたものと考えている。しかしながら、“仏だのみ”が果たしてリスクマネジメントと言えるであろうか、という点は一つの論点である。これまでのオオクラは、リスクマネジメントを、望ましくない事象の顕在化を防ぐというpracticalなaspectでしか捉えていなかった。しかし、さらに掘り下げた考察の積み重ねの結果、捉え方に変化が生まれてきている。リスクマネジメントは、人と人との豊かでresilientなつながりという「社会性」の概念を基底にもつ、と捉えるようになった。
東大寺廬舎那大仏造営について、当時の王朝をGovernment as the ultimate risk manager( Moss、2003)と捉える、すなわち「社会性」の概念から捉えたとき、その造営に関して未解明の史実があるとすれば、それはマイニングせざるを得ない、というのが研究に駆り立てている動力である。
ただし、そのように「社会性」の概念を基底に、望ましくない事象の顕在化を防ぐことを目的とするということは、いわゆるリスクマネジメントという器でとらえるものとは違うのではないかとも考え始めている。
オオクラのリスクマネジメントは、新型コロナにあてはめて考えていただけると分かり易いと思う。新型コロナでは、感染した後の治療薬の開発研究と、感染そのものを防ぐワクチンの開発研究にわけることができるが、オオクラのやっていることは、望ましくない事象の顕在化を防ぐワクチンの開発研究に相当する。残念ながら、日本にはオオクラと同じような捉え方をしている研究者は存在していない。しかし、広い世界なら誰かいるのではないかと探しているところである。「鎖を引っぱると、一番弱いつなぎ目から切れる。…しかしどのつなぎ目が弱いかを、鎖が切れる前に知ることは困難である」(植島啓司、2007)というその困難性にチャレンジし続けようと考えている。
高松さんとの共同研究が、オオクラのまだ見ぬ扉を開くことに繋がり、少しでも社会の豊かさに資することになれば、と考えている。
2021-05-15 (2018年博士後期入学) 野尻 泰民
おかげさまで博士(商学)の学位を取得することが出来ましたことをご報告申し上げます。3月27日の学位授与式では、感じませんでしたが、それから数日して学生としてOh-o!Meijiにログ・インできなくなって、改めて修了したのだという実感がわきました。駿河台での5年間は、シニア学生としてキャンパスライフをおおいに満喫することができました。特に博士後期課程の博士号取得に向けての研究生活は、充実した楽しいシニア学生ライフでした。
その博士後期課程の3年を振り返ると、最初の2年はひたすら論文の投稿に明け暮れました。そして、ちょうど一年前の3月から博士論文を書き始めて、7月の事前報告会を経て9月末に博士論文を提出しました。コロナ禍における一回目の緊急事態宣言下で、どこにも外出できない状態の中で博士論文を作成していたことになります。その後、10月末に口頭試問を受け、その時の指摘事項を修正して、最終的な博士論文をその年の末に再提出しました。翌年の2月はじめに、指導教授から教授会の投票結果で合格したとの知らせがあり、博士論文の作成開始から約1年を要して結果が出たことになります。
博士号の取得においてハードルが高い要因のひとつは、査読付き論文4編が必須ということだと思います。特に学会への論文投稿では、レフリー二人からすんなりパスするのはまれで、リジェクトされるのが常です。それに対する反論が投稿論文のページ数より多くなることや、反論に対してさらにリジェクトされることもあるようです。しかし、レフリーは、はじめて読む人の立場から指摘するので、今まで気づかなかった部分が多く、博士論文の作成に役立ったと感じています。また、わたしの属している学会のジャーナル発行は年2回でしたが、学会によってはジャーナル発行が年に1回という場合があり、投稿の機会が少なくなるために、査読付き論文4編という条件を満たすのが厳しくなります。
このようにして取得した博士号でありますが、わたしは特定な目的のために博士号を取得するという意識はなく、その目的はじっくり何かを研究することができればよいというものでした。1年前に、ある大学の教養課程における経営学の講師にという話があり、経歴書を作成して応募しましたが、年齢制限の理由で不採用でした。しかし、今思うとかえって幸運だったかも知れません。それは、もしも採用されたらコロナ禍のために、オンライン授業の資料作成に忙殺されて、博士論文を作成するどころではなかったと推測されるからです。
このような背景から、取得後のことは何も考えていなかったので、現在次の目標に向けて手探り状態というところです。博士号は、研究者として独り立ちして歩き始めるためのライセンスといわれています。博士論文のテーマである「企業が成長するための条件とは何か」について、これからも地道に研究を続けて行きたいと思います。そして、実現することができるかわかりませんが、博士論文に加筆して書籍にして出版したいと考えています。
今のコロナ禍では、みなさんと対面でお会いする機会がありませんが、またお会いできる日を楽しみにしています。
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写真上:授与式終了後に撮った指導教授の山下先生との記念写真。
写真下:小田原の山から撮った富士山と足柄平野。右に見える小高い山は、矢倉岳です。
このアングラから撮られた富士山はあまりない。
2021-05-01 (2018年度入学) 寺瀬 哲
英国と言えばイングランドと思われる方は多いと思いますが、正式には英国連合王国でイングランド、スコットランド、ウェールズ、北アイルランドの4つの地域全体を総称してUNITED KINGDOMもしくはGREAT BRITAINです。(BREXIT後は政府が盛んにGLOBAL BRITAIN?と言っていますが)ラグビーやサッカー(英国ではフットボール)の世界大会でも、1国から4地区それぞれが独立したチームとして参加することに不思議な感じがあるかと思います。中でもスコットランドはイングランドとは歴史的には(メルギブソン主演の映画「ブレイブハート」を観た方もいらっしゃると思います)幾多の戦いがあってイングランドと激しい対抗意識があり、スポーツの試合にイングランドが敗れるとスコットランド中のパブなどが喜んで大騒ぎしています。最近そのスコットランドで独立の気運が高まっています。
スコットランド独立については2014年住民投票が実施され55%対45%で独立反対派が勝利しましたが、しかし最近のスコットランド世論調査では2度目の住民投票では独立を支持する人が多数を占めるようになっています。住民投票の実施には英政府と英議会の承認が必要なため、独立を問う住民投票の準備をスコットランド政府の独断で進めても象徴的な意味合いでしかありません。このためスコットランド国民党(SNP)党首のニコラ・スタージョンは住民投票を法的に異論の余地のないものにしたいと繰り返し明言しています。世論調査によると今年5月6日予定しているスコットランド議会選でSNPが勝利する見通しで、現保守党政権に対して住民投票の再実施への承認を働きかける圧力が増しています。(BREXIT国民投票や最近の世論調査には信頼性が薄れていますが)現ジョンソン首相は後世に名を残す首相として当初はBREXIT首相であり、最近は新型コロナウイルス対応に苦慮した「パンデミック首相」としています。そして首相就任から1年たった現在は「連合王国」を分裂に導いた指導者として名を残すのではないかという不安が漂いはじめています。首相とその側近は、再びちらつくスコットランド独立の脅威に遅まきながら気付いています。独立を目指しているSNP党首でスコットランド行政府首相を務めるニコラ・スタージョンの力強いコロナ対応と、住民の過半数が分離独立を支持していることを示す世論調査によって揺さぶられています。
ジョンソン首相自身この問題を引き起こした一端を担っています。前述の通りスコットランドの英国からの独立の是非については、2014年の住民投票否決でここ一世代の間には争点にはならないはずでした。しかし2016年のEU離脱の国民投票でスコットランドがEU離脱を反対したことでぶり返し、その後に離脱強硬派のジョンソン氏は、連合維持を優先するため穏健なEU離脱を目指していたテレサ・メイ首相を追い落としたのです。
2017年の保守党が敗北した英総選挙でも、テレサ・メイとスコットランド保守党のデビッドソン党首は健闘してSNPの得票率は37%に落としていました。しかし2019年の総選挙ではジョンソン首相のEU離脱に反対していたSNPは45%まで得票率を回復させ再び2度目の住民投票の実施を目指しています。ジョンソン首相は、今は耐え抜くことが最善だと直感していて、英首相官邸のある上級ストラテジストの言葉を借りるなら「SNPがどれほど独立を叫ぼうと、いかなる状況においても新たな住民投票は認めない」という覚悟です。しかし5月のスコットランド議会選挙でSNPがもし過半数を押さえた場合には、これを守り抜くのは難しいかもしれません。もしスコットランドが独立にでもなれば、元々宗教的にカトリックとプロテスタントの違いでイングランドに抵抗ある北アイルランドなどにも大きな影響を与えるでしょう。そして英国が分裂するような事態が起こるかもしれません。
ただ最近になって数年以前のSNP前党首の係争中のセクハラ裁判に際してのスタージョン党首に対する内紛が勃発して(今になって2年以上前のことが蒸し返されるのも少し不自然と思われますが?)前党首が新たな新党を立ち上げると表明しています。いずれにしても5月のスコットランド議会選挙の行方が非常に注目されています。
末尾になりましたが3月に何とか卒業しました。昨年からはコロナ禍によってほとんど学校には行かず対面授業も全く無かったのですが、学生生活は非常に楽しく過ごせました。コロナ禍でシニア入学の方々とのランチ会や懇親会も全く開催出来ない状況ですが、また事態が好転すれば(いつになったらと思いますが…)皆様と再会するのを楽しみにしております。そして我々世代は重症化リスクの高い年齢とされていますので、皆様におかれましてはくれぐれも気を付けて日々お過ごしください!
2021-04-15 (2020年度修了) 河合芳樹
2019年4月7日、快晴で桜満開の中、武道館の保護者席に孫が座って入学式を迎えました。それから2年、2021年3月26日、晴れ渡った空の下、桜の花びらが少しばかり舞う中で、満開の桜を愛でながら、コロナ禍で保護者席は設けられませんでしたが、卒業式と修了式が武道館で行われました。2年の歳月は短かったのは事実ですが、コロナ禍の1年は長く感じたことも事実です。コロナは2年前の入学式を遥か昔のように感じさせます。
2020年度はZOOMという新しい武器が一気に広まりました。その結果、古稀を過ぎて学割定期で通学する密かな喜びを奪われ、授業で通学する機会のない1年でした。もっとも、学割で鑑賞した美術館を出るとき、シニア割りの方が安かったと後悔することも少なかったです。
ただ、若い学生達には辛い1年だったと思います。昔を振り返りますと、半世紀前のまだ学生運動の最中に大学に入学し、卒業式前まで学費闘争で大学はロックアウトされ、大学に行けなかった、いや、それ以外の理由(?)で行かなかった時期が続いていましたが、学外で友人と毎日の様に会っていましたから充実していました。確かに、ZOOMなどによるオンライン会議は、ある面で効果的効率的です。先生方も皆工夫を重ねていました。少人数での意見交換は議題に集中できて深まることも多いです。1時限目の授業は、朝の通勤時間に苦労することもなく、下はパジャマ姿で受講できました。
仕事の関係でもオンライン会議を行っていますが、議事進行に無駄がなく、時には予定時間の半分で終わります。しかし、しかし……、参加者の微妙な表情が分かりませんし、無駄のないことが話の中身に発展をもたらさないことが多く、飽きたらなさを感じたままオンライン会場から退場することになります。余韻を感じさせない会話は新たな発想を生みません。オンライン飲み会もつまらないわけです。大げさに言えば、会話のダイバーシティがなくなりました。
さて、そんな2020年度でしたが、世の中の意識が大学院1年目の2019年度に較べて2年目2020年度は大きく変化したことは記憶に残るでしょう。勿論、コロナに起因するところが大きく、不謹慎な言い方を許していただければ、「禍転じて福と為す」気運が世の中に生まれていることです。それらは、①デジタル活用による生活空間の創出、②ライフスタイルの変化に対応した都市・地域政策及び防災対策、③脱炭素社会の実現、の3点かと思われます。
これらの点は、今までも言われ続けてきた事項ですが、コロナ禍を契機にして、受け入れる土壌が世論として形成されました。それぞれの具体の策はまだこれからですが舵は切られました。一方、1000兆円を超える国の債務はコロナ禍でさらに膨らみ続け、プライマリーバランスの黒字化は諦めたかに見えます。こうした債務を現世代で返済することは不可能ですから、将来世代の人達に負担を残します。負担だけを強いられる世代は、負担を招いた原因よりも、負担を残した世代に不満を感じるでしょう。世代間の感情のズレが拡大することを危惧します。こうした背景もあって、MMT(現代貨幣論)を巡る議論が根付いてきました。
この2年は、修士論文作成を通して学んだことは勿論ですが、私が学生だった1970年頃、経済学は市場経済を重視する新古典派経済学が主流になりつつあり、当時のパラダイムシフトとして議論されていたことを思い出させてくれました。当時の流れは、レーガンやサッチャーの経済政策に結晶し世の中に浸透しました。しかし、昨今では、市場経済においても国の役割を強調する議論が多くなり、私の修論のテーマであった地方財政においては、地方交付税や国庫支出金への依存割合が多くなり、社会保障関係歳出が地方財政の半分を占め、国が関与する場面は多くなるとともに地方分権が危うくなっています。
我々国民も地方政府よりも中央政府の発言を注視しています。これは企業活動においても同様で、市場主義を絶対とする考え方だけではなく、国家の役割を重要視する議論が多くなりました。M.マッツカート教授の『企業家としての国家』の翻訳本は古本も品切れが続きます。コロナ禍後の世界について、益々、百花繚乱の相を呈しています。
この半世紀前を思い出すとともに、これから変わって行く世の中を新鮮な思いで観ていくための姿勢の一端を学ぶことができた2年でした。これからも、今少し、しょぼつく目と戦いながら学ぶ機会を得ていきたいと思っています。
有り難うございました。
以上
2021-04-01 (2014年博士課程前期卒業) 保浦卓也
人生の終盤で唐突のパンデミック。歴史の上では、何十回もあり驚くほどのことではないと、冷静になれる人もいるかもしれませんが、当方は本当にびっくりしています。大震災はメディアも取り上げるので想定の中にはありますが(もっとも常に深刻に思っているわけではありません)、コロナは全くの不意打ちです。やむを得ず、御多分に洩れずの“巣ごもり”生活となっています。そこで、何を勘違いしたものか、ドラッカーの「Management」を取り出してパラパラと見始めました。買うには買ったが、一生読まず、そこに置いておくだけの本の一冊でした。なにしろ、本文の最終頁は811ページですから、見るだけでも怖気をふるいます。修士論文の時に、必要があって開いたことがあるだけです。今回は必要もなく手に取ったのは、やはりパンデミックのショックのせいでしょうか。まだ、ほんの出だしであまり先に進んでいませんが大変印象深いセンテンスに行き当たりました。「利益は目的ではなく企業のパフォーマンスの結果である」(よく分からないロジックですが)として、利益の機能をこう表現するのです。「利益は最終的に経済的充足と社会的サービスの費用をカバーする。ヘルスケアから国防まで、教育からオペラまで。」
ここでオペラが出てくるのです。ドラッカーはウィーンで生まれ育ちましたし、彼の祖母がマーラーが指揮するウィーン・フィルでピアノ・ソロを務めるほどの腕前の持ち主という音楽一家でもあったので、オペラは血肉そのものだったでしょう。このセンテンスでふとに思い出したのが、昨年は一度もオペラを見ていないということでした。前半は、予約していた公演がすべて中止になり、後半おずおず始められた公演は当方の方が気乗りせず、行きませんでした。オペラファンになってから初めてのことです。今は、オペラ関係者も(多分協力金もなく)苦しいと思い、ささやかに寄付などをしていますが、そもそも華やかな気晴らしを身上とするオペラを見る気になれません。ここで、以前当欄でオペラの主要顧客が高齢者なのに、彼ら(我ら)をターゲットにしたマーケティングが下手だということ、そしてうまくやればもう少し経営的なベネフィットがあるのではないかというようなことを書かせていただいたことを思い出しました。でも、そこで終わると中途半端な感じがしたのです。もともと高齢者にたよりすぎると危険なことは自明の理だということに気づいたのです。
若いユーザー層を作っておかなければ、ビジネスとしては生き延びられないということです。高齢者層は早晩なくなります。人が年をとれば必ず一定数の人口がオペラ・ファンになるという保証はないのです。業界人でも同様のことを心配している人はいます。現に10年ほど前に、ニューヨークのメトロポリタン歌劇場(世界のトップのオペラハウスの一つ。通称メット)の新任の総裁の講演を聞きましたが、そのなかで「自分が総裁になったとき、聴衆の皆様の年齢層がどんどん高くなり、足を運ぶお客様の数が減っていました」と嘆いていました。日本よりも成熟したオペラ市場であるアメリカでは、ずいぶん前からその問題が始まっていたのです。そこで彼は多くのまだオペラに慣れていない潜在層にオペラの楽しさを知らせるため、映画館への高解像度配信(これは日本で今でもやっているメット・ヴューイング)、ラジオ中継、格安ティケット(先着順で100ドルの席を20ドルにするラッシュ・ティケットや35ドルの学割席)の発売などを行いました。その戦略は現在でも続いているようですが、期待したほどの成功には届いていないようです。
また、ことにヨーロッパではおそらく同じ問題意識から、べつの戦略も試されています。Regietheater(制作管理者の劇場という意味のドイツ語)と呼ばれる、オリジナルの演出を変えて、現代の観客の興味を引こうというトレンドです。18、9世紀の話を現代のパリやニューヨークに移したり、SF的に変えたりしています。演出家中心主義です。これには賛否(否のほうが多いか?)の議論がかまびすしく、観客増員につながる気配はまだ見えません。
中にはほとんどオーソドックスな演出で終始しますが、最後のところを変えて新鮮さを出そうという演出家もいます。例えば蝶々夫人の武士の娘としての自害のあと、それまで逡巡して姿を見せず舞台の後ろで「蝶々さん」と辛そうに歌っていたピンカートンとシャープレスが舞台に上がり、シャープレスが蝶々さんの子供を抱き上げるというのが普通ですが、自害の後すぐに幕という蝶々夫人の自害をショッキングにする演出があったそうです。全体の悲劇の余韻を犠牲にしたのです。私も一昨年同様の経験をしショックをを受けました。 「トーゥランドット」という中国の美しいが冷酷な姫(氷の姫)についてのオペラです。求婚してくるさまざまな国の王子たちに、3つ問いを出し、答えられなければ斬首することを繰り返して純潔を保っている姫です。その危険な謎解きに、国破れて流浪の旅にあるティムールの王子カラフが挑戦します。
その城下で、別に逃れた父王とそれに従う彼を慕っている女奴隷リュウと出会っていて、父王は反対しますがカラフは決行し、3問を解きます。トゥーランドットは、それでも国王である父に「身を汚すのは嫌だ」と拒否します。そこでカラフは明日の夜明けまでに自分の名前が分かったら、自分の首を差し出そうといいます。トゥーランドットは全国民にこの若者の名前を探れと指示します。その時の姫の命令をカラフが引用して歌うのが荒川静香で有名になった「誰も寝てはならぬ」です。市民がカラフの父王とリュウがカラフと一緒にいたことを思い出し2人をとらえます。その時、リュウが「自分だけがこの人の名を知っている」と言いながら兵の剣を奪い自分の胸に突き刺します。そうこうするうちに夜が明けつつある時、出てきたトゥーランドットにカラフは「自分の名はカラフだ」と明かします。それを知ったトゥーランドットは、勝ち誇ったように「この者の名は、、、」と歌い始め、一瞬置いて「それは愛」とカラフを受け入れて合唱で幕が下ります。ところが、2019年7月に見た公演では、 トゥーランドットは大きな階段を下りながらカラフに近づき「愛」と言って胸に短剣をさし死んでしまったのです。論理的には、多くの若者の死とリュウの愛に対し自戒の思いが沸き上がったと理解できますが、作曲家(プッチーニ)の意図とは全く相容れません。たまたま最近読んだアメリカの指揮者の回顧録にも同じような経験談がありました。彼が指揮した「トゥーランドット」は「合唱が永遠の愛について歌う中、舞台上で苦しみもだえるという演出だった。、、、幸せなハーモニーの中に、陰鬱な内声を無理矢理見出す必要があったのだろうか」と嘆かせる最後だったそうです。オペラでは保守的なアメリカにしても冒険的なヨーロッパにしても、新たなオペラ・ファンの開拓にはまだ紆余曲折がありそうです。コロナ禍を克服した時、オペラはどんなふうに変わっているでしょうか
ワクチンもオペラ同様紆余曲折がありますね。この混乱が収まるのが早いか、「Management」を読み終わるのが早いか、途中で挫折するか神のみぞ知るというところです。
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写真上右:パリの高層ビルを背景にした「ドン・ジョバンニ」
写真上左:オペラ夏の祭典2019「トゥーランドット」
2021-03-17 (2020年度入学 : 富野研究室) 北島 昭一
今年の1月末に、明治大学より「2021年度入学式のお知らせ(2020年度入学者,2021年度入学者合同開催)」というメールが届きました。4月7日(水)に日本武道館で今年の新入生と合同で、1年遅れの入学式が行われる予定です。会場内の人数を制限するため、5,000人を上限とし、3回に分けて実施されます。私は、大学でも学生運動のあおりを受けて入学式がなく、何か因縁めいたものを感じていましたので、喜んで出席する予定でいます。日本武道館といえば、ビートルズ(The Beatles)が来日して伝説の日本武道館で歌った頃を思い出しました。日本武道館は、ビートルズが初のロックコンサートを開催して以来、世界中に知られるコンサート会場となりました。
昨年、明治大学大学院に入学したものの、入学式も無く、ガイダンスも無く、いきなり5月からのオンライン授業が始まって、最初は右往左往していました。オンライン授業もなんとなく臨場感が無く、また、コロナ禍の中でStay at Homeにより家にいることも多くなった関係で、次第に音楽を聴く機会が増えてきました。オンラインに使う私のデスクトップPCの奥にオーディオセットがあり、授業の合間に音楽を聴くケースが多くなりました。昨年6月に行われた「GF−Masterのオンライン2020/4入学歓迎懇談会」で、昭和26年生まれのシニア生は多いとの話もありましたが、私もその一人です。私たちの年代は、ビートルズの音楽と一緒だったような気がします。コロナ禍の中で、授業の合間にビートルズのリマスターCDを取り出して、聴いています。
ビートルズがデビューしたのは、1962年。初期の曲が立て続けにヒットしたのは、1963年でした。ちょうど私が小学校6年生の時でした。私はその当時のことをとてもよく覚えています。当時、どのような形でビートルズの音楽を聴いていたかと言いますと、FM放送です。勿論、当時はレコード盤もありましたが、私のお小遣いでは買えるような物ではありませんでした。FM放送はAM放送のモノラル音響と違って、ステレオ音響ですので、音楽が好きな私としては、透明感漂う音質に魅了されていました。私は、生まれが熊本県です。その当時、熊本には正式なFM放送局がなく、「FM熊本実験局」という、ものものしい名前の会社?が実験的にFM放送を行うスタイルでした。実験局ですから、朝から夜まで通しでの放送ではなく、1日のうち限られた時間での限定実験放送でした。それでも、毎週土曜日の夕方は音楽チャートのヒット曲が、1位から10位まで全て流れていましたので、毎週FM放送に聴き入っていました。『プリーズ・プリーズ・ミー』『シー・ラヴズ・ユー』『抱きしめたい』『フロム・ミー・トゥ・ユー』『キャント・バイ・ミー・ラヴ』などの曲がヒットチャート10位以内にずっと居座っていたことを覚えています。
ビートルズが日本に来日したのは1965年、私が中学3年の時です。日本武道館でのコンサートの様子もよく覚えています。私は熊本に居ましたから、東京などの大都会にはまだ行ったことが無く、また、行くような経済的な余裕もなかったので、テレビで見るしかありません。当然ながら、ビデオ録画装置も当時は有りませんから、録画してもう一度見るようなこともできません。日本武道館で行われたテレビ演奏を食い入るように見ていた記憶があります。武道館内の警備が厳しく、観客の行動も制限されて、なんとなく堅苦しい雰囲気で彼らが歌っていたのを覚えています。また、演奏時間もかなり短く、あっと言う間に終わった感じでした。日本武道館で海外の音楽バンドが歌うのはまかりならぬ、といった批判が有り、右翼団体が街宣車で「Beatles Go Home」と書かれた垂れ幕の上で演説していたこともニュース放送されていました。
こうした中で、ビートルズは1970年に解散し、その後は、彼らは徐々に独自の道を歩み、独自の音楽を展開していきます。今年は、解散後ちょうど50年経過ですね。最近、韓国の7人組男性「BTS」なるヒップホップグループが世界中を席捲し、なんとアメリカでは彼らの曲がヒットチャートの1位に躍り出る結果になっています。でも、いろいろ調べると、彼らは「音楽会社」がイケメン男子・歌が上手い男子を韓国中から集めて作った、いわば人工的な音楽グループのようです。このあたりが、ビートルズとの違いを感じざるを得ません。
いよいよ4月から対面授業が始まります。今度は皆さんとオンラインではなく、Face to Faceでお会いできるのを楽しみにしております。
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(上左)画像出所:https://www.universal-music.co.jp/the-beatles/
(上右)画像出所:https://beatle001.hatenablog.com/entry/20190703/1562121938
2021-03-07 (2020年度入学) 原 俊之
新型コロナウィルスの感染により、日本の外食産業は大きな影響を受けています。2020年12月度の外食産業の売上高は前年同月比マイナス15.5%で、2021年1月以降も新型コロナウィルスの感染の再拡大による営業時間の短縮要請が政府から出ていることもあり、大幅な売上高の落込みが続いています。私は現役時代20年近く外食産業の経営に携わってきており、現在もいくつかの外食産業の企業の顧問をしているため、新型コロナウィルスが外食産業に与えた影響について感じていることを述べさせて頂きたいと思います。
外食産業の歴史は1969年の第2次資本自由化によって自由化業種に指定されたことで、技術提携や合併などによって海外企業の持つ新しい経営技術の導入が可能になり、本当の意味の外食産業が登場しました。1970年代のモータリゼーションの進展に対応して郊外の幹線道路沿いに広い駐車場を持ち家族連れの顧客をターゲットとしたファミリーレストランが開発されました。また、フライドチキン・ドーナツ・ハンバーガーなどの新しい業態が導入されました。
外食産業が店舗展開を開始した1970年代の日本の経済規模は高度成長によって拡大し、同様に個人所得も増加したことで外食支出金額が拡大しました。また、女性の社会進出や核家族の進行によって家計における外食支出比率も拡大しました。このように、外食は身近な余暇を楽しむ消費活動となり、従来外食が持っていた精神的要素である心理的制約がなくなりました。
外食産業の市場規模は1975年の8兆51百億円から1997年には28兆81百億円と22年間で約3.4倍に成長しました。2011年には22兆59百億円まで約6兆円緩やかに減少した後、2018年は25兆50百億円の市場規模まで上昇していました。外食産業の市場規模は1996年のO-157問題の発生や1997年の消費税5%引き上げなどの外部からの要因を受けて、1997年を頂点として緩やかに減少しました。また、2001年日本国内でBSE(牛海綿状脳症)が発生し、米国でもBSE発生が確認されたため2003年から2005年まで米国産牛肉の日本への輸入が禁止されたことで、外食産業の経営に大きな影響を及ぼしました。2002年には牛肉産地偽装や残留農薬問題が発生し、2004年には鳥インフルエンザの発生など食の安全性が揺らぐ問題がおこりました。
今回の新型コロナウィルスは感染抑制対策として店内の客同士の距離を離すために入客数が減少し、営業時間の短縮と相まって外食産業全体の売上としては、昨年から10ヶ月連続での前年同月比でのマイナスが続いています。政府からの外出自粛や在宅勤務の要請を受けて、外食産業の需要が減少すると同時に消費者行動が変化することで、外食産業の中でも業態によって状況に大きな違いが発生しています。
2020年12月度の業態別売上高前年同月比において、ファーストフードは業態全体としてマイナス3.0%と減少幅が非常に少ない業態です。ハンバーガーなどの洋風のファーストフードはプラス4.8%と唯一売上を伸ばしています。牛丼・天丼などの和風のファーストフードはマイナス5.3%で、回転寿司はマイナス3.8%です。ラーメン・うどんなどの麺類のファーストフードは「ちょい飲み」需要の減少によりマイナス18.1%とファーストフードの中で減少幅が大きな業態です。
これに対して、ファミリーレストランは業態全体としてマイナス21.8%で、特に高級レストランのディナーレストランはマイナス41.9%と減少幅が大きいです。ファミリーレストラン業態の中でも焼き肉は消費者が店内の換気が良く安心を感じるため、マイナス11.4%と減少幅が少ないです。最も影響が大きかったのは、法人や大人数での宴会需要が無くなり、酒類の提供の時間が短縮された夜の時間帯の売上比率が高いパブ・居酒屋業態でマイナス60.9%でした。
洋食のファーストフード業態の売上が好調なのはテイクアウトや宅配の比率が高いことに要因が有ります。このように新型コロナウィルスの影響は外食産業を「都心繁華街立地」「店内飲食」「ディナー時間帯」「大人数利用」から「郊外住宅地立地」「テイクアウト・宅配」「ランチ時間帯」「少人数利用」に変化させるものです。新型コロナウィルスが終息しても在宅勤務の継続によりコロナ前の状況に戻らないため、外食産業の立地戦略や価格帯、商品戦略、ひいては業態開発に大きな影響を与えると考えます。
2021-02-15 (2020年度入学) 宇田川 博文
私は、昨年大学院へ入学しましたが、現在までに明治大学へ通学したのは4月に二回のみです。その他は、すべてZoomもしくはSkypeによるリモート授業で、ゼミの夏合宿はもちろんのこと、同期生との面談や懇親会も全くない一年となりました。首都圏にある大学や大学院の一年生は、ほぼ同じような状況だったと推測されますが、この特殊な状況で苦労したことを振り返ってみたいと思います。これから大学院生になられる方や入試を検討している皆様の参考になれば幸いです。
最初に苦労したのは、リモートワークのための準備でした。入学手続きの段取りに手間がかかる上に、リモート授業のための資料が大量にあり、それらを理解してパソコンへソフトをインストールすることが大変でした。幸いにも、パソコンは最新の機種にリプレースしていたため、ハード環境に苦労はしませんでしたが、ワークスペースの確保に四苦八苦しました。自分専用の書斎はありませんので、寝室の一部を模様替えして半書斎にしました。したがって、妻が就寝する際などは、パソコンを抱えて流浪の民となって家の中をうろうろする羽目になりました。この原稿も今はリビングで書いています。
巨人の肩にのる矮人
二番目に悩んだのが、履修カリキュラムをどうするかでした。指導教授からは、推薦講座を教えて頂きましたが、あれも聞きたい、これも受けたいと欲張ったおかげで8講座も履修してしまいました。履修ガイドには、5~6講座が目安と記載されていたにもかかわらず、8講座を履修したため時間的な余裕がほとんどなくなり、苦しみました。最近知ったのですが、各講座は予習・授業・復習・課題提出を含めて6時間程度必要になるように設計されているとのことで、8講座だと週48時間、1日当たり約7時間が必要にことになり、オーバーワーク気味になってしまいました。
さらに、近年の社会科学系の研究では、統計学の多変量回帰分析を活用することが多く、微分、集合、線形代数などの知識が必要になりますが、すでにほとんど覚えておらず、復習するのに多大な時間を費やすことになりました。救いだったのは、YouTubeなどに多くの学習動画がアップロードされており、自習するための環境が整備されていたことです。この点は、40年以上前の学部生時代とは大違いです。
なお、統計学を勉強する際に大変役立った本は「マンガで分かる統計学」(オーム社、左写真参照)でした。マンガと侮るなかれ、初学者だからこそ分からない単純なことが解説されており、理解度を高めるためにはもってこいでした。表紙が少女趣味的なので持ち歩くのは少しためらわれますが、記憶に残る本ですので機会がありましたらご一読ください。
余談ですが、履修した講座の中で、憩いの場になったのは学術英会話でした。参加者の中で男性は私だけ、もちろん年配も私一人でしたが、英会話のため、普通なら気恥ずかしくなるようなテーマを若い学生さんとフランクに話すことができて、大変リフレッシュすることができました。研究に直接関係のない講座を履修することも大変重要だと改めて感じました。ただし、残念ながら卒業単位外の講座でしたが・・・。
三番目に大変だったのは、サイド・インフォメーションがほとんど得られなかったことです。通学していれば、ゼミ生・同期生・講座仲間・GFマスターの皆様との会話などで得られるはずの多様な情報が、ほとんどありませんでした。リモート授業は、内容の理解という点ではおおむね問題ないと思いますが、インフォーマルな情報を得る機会としてはほぼ機能しません。インフォーマルな情報が少ないため、自分がどの方向を向いているのか、どこへ向かっていくべきなのかなどの方向感がなかなか掴むことができませんでした。この方向感の無さは現在も続いていますので、GFマスターの諸先輩方からアドバイスを頂ければ幸いです。
最後に残念だったのは、リアル(対面)な学会に出席できなかったことです。昨年の経営システム学会の全国大会で簡単な論文(モドキですが)の発表を行いましたが、リモートでの開催だったため、臨場感や緊張感を肌で感じることができませんでした。特に、学会後の飲みニケーションが無かったのが心残りです。
ここまで、愚痴のような話になってしまいましたが、私個人としてはリモート授業については大賛成です。リモート授業は、通学時間を削減でき、授業内容をいつでも見返すことができるので予習・復が行いやすくなるなどメリットが多いと感じています。さらに、リモートで授業を行うために、講義内容や指導方法が見直されることになり、より質の高い学びに繋がっているのではないかと考えています。もちろん、対面授業には、会話による情報量の多さや、インフォーマルな情報の得やすさなど優れた点も多いので、100%リモート授業で良いとは思いませんが、コロナ禍が収束しても、単純に以前のシステムへ逆戻りせず、新しい大学教育に発展することを願っています。
コロナ禍での大学院一年生を経験してみて、改めて己の浅学非才を思い知らされました。最近、よく「巨人の肩にのる矮人」という言葉を思い出しますが、私も何とかして巨人のくるぶしぐらいまで登って、多少なりとも未来の景色を見てみたいと感じる今日この頃です。
以上
2021-02-01(2018年度入学)高畑英夫
寒中お見舞い並びに自粛お見舞い申し上げます。私も自粛中で昨年4月以来、東京に行くことも自粛しています。そろそろ自粛疲れを感じておりますが、もう少しの我慢と思っています。昨年の今頃は、修士論文の提出が終わり面接に備えている時期でした。昨年4月から聴講生になることも選択肢に入れていましたが、新型コロナの感染拡大で断念しました。自粛生活の中、読書は継続しようと思い関心のある本を読んでいます。昨年9月ごろ、あるきっかけで「日本資本主義の父」とうたわれた渋沢栄一の『論語と算盤』の理念に基づいた信念に関心を持ちました。今日、世界的にグローバル資本主義の行き過ぎや格差拡大を懸念する声が強まっており、「公益」追求の経営を重視した理念に注目しています。調べてみると多くの渋沢栄一に関する著書が発行されていることを知りました。そして発行の多くは2010年前後です。2007年から2009年に世界の金融市場と各国経済を大きく混乱させる原因となった米国のサブプライム問題が起きて拝金主義に対する反省から、『論語と算盤』の精神、哲学が必要とされていたのではないかと言われています。あのドラッカーも、渋沢栄一の考え方を尊敬し研究していただけではなく自らの見識の血肉としていたことを知りました。ここでは、最近読んだ渋沢栄一に関する本七冊の中から二冊を紹介したいと思います。そして、私自身は環境問題にも関心を持っているので、環境問題と資本主義の関係を論じた新書『人新世の「資本論」』も紹介したいと思います。
『はじめての渋沢栄一』編者渋沢栄一研究会、ミネルヴァ書房、2020年5月30日
渋沢栄一研究会は、1989年に発足しています。筆頭執筆者は島田昌和(学校法人文教学園理事長、1993年明治大学大学院経営学研究科博士課程満期退学、2005年博士)。この本は新書で、渋沢栄一(1840-1931)について書かれています。序章には、「この人物への興味を深めるための本である。それは一般の読者だけでなく大学生がゼミ等で経済史や近代史を学ぶときに自分たちでこの人物のどこから調べるかを決めるための学習ガイドでもある(1-2頁)」と。渋沢栄一の言葉で特に興味を持ったのは、失敗史を示す意義についてです。それは、「我が国の過去の歴史的労作を顧みると、殆どが自慢史ばかりである」・・・自慢史には劣等感とごまかしがあるのだから、嘘のない歴史すなわち、「私は日本に失敗史が必要であることを痛感しております」の部分です。「真の成功は失敗を率直かつ科学的に究明した上に築かるべきものであろう(115-116頁)」と述べています。
『現代語訳 論語と算盤』著者渋沢栄一、訳者守屋敦、ちくま新書、2010年2月10日
『論語と算盤』(1916)は、渋沢栄一の最も有名な著書として知られていますが、道徳と経済は両立させることができるという「道徳経済合一説」が彼の信念です。ここで論語=道徳、算盤=経済を意味しています。「道徳経済合一説」は渋沢栄一の経済思想のみならず、人生哲学の根底をなす考え方です。一つは、道理のともなう富の追及、もう一つは、公益を第一にする考え方です。暴走しがちな市場経済に基づく資本主義の精神的制御装置の役割、道徳と富の両立のために金銭所有者の責任を強調しています。そして欠けてはならないものは常識であると。常識とは、智・情・意(知恵、情熱、意志)のバランスがとれていることだいいます。この本の中で最も関心を持ったのは、「道徳は進化するか」ということです。著者は「道徳は文明の進化に従って、みずからも進化できるのだろうか。昔の道徳というものは、進歩していくことによって、尊重すべき価値があまりなくなってしまう場合もあるのではないだろうか。しかし、一方で仁や義といった、社会正義のための重要な道徳を考えてみると東洋人の考え方は古今ではあまり変化がないように思われる。今日、理学や化学がいかに進歩して、モノに対する知識が豊かになったとしても、この根本の点については変わらない。結局道徳の根本に関していうなら、昔の聖人や賢人の説いた道徳というものは、科学の進歩によって物事が変化するようには、おそらく変化しないに違いないと思うのである(pp108-112)」と述べています。
『人新世の「資本論」』著者齋藤幸平(大阪市大大学院准教授)、集英社、2020年9月22日
著者は1987年生まれの若手経済思想家で、昨年9月に第一刷が発行された新書です。「人新世」はあまり聞きなれない言葉でしたが、最近注目されています。「人類の経済活動が地球に与えた影響があまりに大きいために、ノーベル化学賞受賞者のパウエル・クルッツェンは、地質学的に見て、地球は新たな年代に突入したと言い、それを「人新世」と名付けた。」とあります。人類が環境危機を乗り切り、「持続可能で公正な社会」を実現するための解決策は、「脱成長コミュニズム」という概念を提唱しています。それは、気候変動の根本原因である資本主義を温存したままで解決はできない。資本主義は収奪と負荷の外部化・転嫁により持続的経済成長してきたが、同時に地球環境を壊してしまうという矛盾を抱えている。資本主義の中では、環境対策とされているエコバッグもアパレル商品と同じく収奪と負荷の外部化を引き起こし、電気自動車も二酸化炭素削減にならず資源消費量を減らさない限り解決しないだろうという考えです。19世紀半ば晩年のカール・マルクスがすでに環境問題を資本主義の究極的矛盾と考えていたことを確信していると著者は述べています。
これからも読書による勉強を続けていきたいと思っています。渋沢栄一も74歳の時に勉強について著書の中で次のように書いています「時を知り事を選ぶには知力が必要で、それは学問を修めることで身に付く。さらに身につけた知力を働かせるためには、さらなる勉強をして行わなければならない。だから勉強は必要なときだけすればいいのではなく、終世続けることが大事なのです。」私自身もそのような生き方ができたらと思っています。最後になりましたが、今年コロナが収束(可能なら終息)し、皆様と再会できることを楽しみにしております。
以上
2021-01-15 (2018年度入学) 伊藤富佐雄
GF-Master倶楽部の皆様、あけましておめでとうございます。
今年も三密を避け、那須の山の中でひっそりと年末年始を過ごしました。標高800mは3年ぶりに雪景色でした。童心に返り、カマクラなどを作ってみました。残念なのはまだ孫がいないことです。
さて、年明け早々の投稿なのですが、新年の話題はないので、旧年の話をさせていただきます。昨年11月、知り合いの大学教授に頼まれて某大学の学部生相手に、「海外駐在員はこんな仕事をしています」、といった話をしました。40-50名くらい参加したでしょうか。Zoomだったので顔も見えず、やはりやりにくかったです。100分講義の後、打ち合わせがあるので学生諸君はZoomから退出するように、と教授が促したところ、4名が退出しませんでした。どうやら顔を出さなくて良いのをこれ幸いとサボったようです。教授は苦笑いをされていました。出席を取ったあと、こっそりと大教室から抜け出した学生時代を思い出しました。
それから一か月くらい経ち、現役の海外駐在員が同じように学部生相手の講演をすることを知りました。他の人はどのような話をしているのか知る機会だったので聴講させてもらいました。名前は出ても顔はでないのでおじさん大学院生とはバレないZoomの半匿名性は確かに便利です。
講演者は某国会計事務所の方で公的機関でも活躍された大変立派な経歴をお持ちでした。ところが、他人様の講演を評論するには10年早いとは思うものの、たぶん2000年くらいに同じテーマで講演を依頼されても同じような話になるだろうな、と思う内容でした。たとえば、日本人は戦略下手でリスクを取らない。海外子会社は本社ばかり見ている一方、本社も決定が遅いから話が進まない。時代はスピードを求めている。現地化を進め、さっさと現地のひとに経営を任せた方が良い、といった具合の展開で、議論がとても古く感じられました。現役の、それも会計事務所で多くの企業を見ているエリート駐在員がいまだにそんなこと言っているとある種のショックを受けました。もし、この現役駐在員の話が標準だとしたら、私はずいぶんと標準とは違う話を某大学学部生にしたことになります。これは、日系多国籍企業は20年間変化がなく、駐在員は現地化が進むと不要となる存在であるという主張に対し、私は環境変化に伴って日系多国籍企業も適応変化を続けている(から駐在員の役割も変化している)という主張をした、とも言えるかなと思います。現役駐在員が駐在員不要論を述べるなど、偽悪趣味な悪い冗談に思えてしまいますが、気持ちは理解できます。顧客や政府とのコミュニケーションは自分よりもよく出来る現地スタッフがおり、技術部長や生産部長なら本社で修得した知識も有効に使えますが、経営管理では現地の法規や商習慣など事情に合わないこともしばしば。本社と現地の板挟みにあってどう調整すれば良いのか、OKY(お前来てやってみろ)も口には出せず、思い悩み自分の存在意義を問い続けるまじめな駐在員を20年以上前から数多く知っています。そして、かれらは帰国し、上位管理者となった。ならっば、そこになんらかの方策を行うプロセスが存在すると思います。
私は多国籍企業論を専門としています。特に、プロセスを中心としたアプローチによる研究を続けています。プロセスでは変化の中にあるパターンを、段階的に、あるいは非段階的に捉えようとします。継続して変化する環境ではパターンも同時に変化する傾向にあります。同じパターンがいつまでも持続するものではありません。言い換えると、プロセス・アプローチの議論はパターン発見時の条件に限って有効であるという制約を前提としています。
現役駐在員が20年前と変わらない話をしたことと、私がこの20年変わってきたという話をしたことは、この文脈で読み解くと同じラインに乗っていることが分かります。つまり、会計事務所という職業柄、新規進出の中小企業事例を多く見ることになるこの現役駐在員の方は、パターンの初期部分を繰り返し見ている、とも言えます。一方、私はひとつの企業で海外部門に長く勤務し、その変遷を見てきました。多国籍企業が多国籍によって築ける企業価値とは何か、それに対し駐在員というポジションはどのような役割をもち、ヒトはどのように貢献するか、を問い、形作ってきた歴史がありました。勿論、1社の事例なのですが、同様の行動を取る企業が複数あればパターンとなります。パターンの規模が大きくなれば潮流となります。今のところ、パターンと言えるかな、くらいの企業数ですが、あながち私の学部生に対する説明も間違ったいなかったかな、と思っています。
地元の神社に初詣に行きました。おみくじで頂いた漢字一文字が「明」でした。曰く、「明けない夜はない。自分の置かれた状況の中でどれだけ最善を尽くせるか。心を屈せず迷うことなく一歩一歩歩き続けよ。ついにその先に辿り着くだろう。
博士後期課程に進学したものの、リモート授業で不完全燃焼の中、少しでもとコツコツとやってまいりました。しかし、興味が右往左往し、取っ散らかったままといった惨状でもあった昨年でした。今年はこれを糧として、紀要論文も提出しつつ、研究を進めていきたいと存じます。皆様、今年もよろしくお願いいたします。早くお会いできる日に期待しつつ。
2021-01-01 (2016年度入学) 杉村 和智
明けましておめでとうございます。本年も宜しくお願い致します。
以下、近況報告です。
明治大学大学院に4年間も通ったのにも拘わらず、昨年4月にある大学院大学の東京社会人コースに入学しました。しかし、ご多分に漏れずコロナ禍で4月講義は中止、5月にon-lineで全講義が始まり、7月からゼミだけが集合形式になりました(1人1人の前にアクリル板を立てての開催です)。現在も教室での講義はゼミと個別指導に制限されでおり、図書室・自習室・コービー機等の利用は許可性になっています。
講義は文理融合のものが多く、私には目新しい内容ですが、自宅PCの前で夕刻から3時間、休祝日には午前中から夕方まで続くon-line講義は70才目前の私には相当厳しいものがあります。また、on-line講義を受けていると時々「大学や大学院とは何だろうか」と考えてしまいます(一方、現役の社会人院生はリモート講義は時間が節約できて助かる!との意見が多いようです)。当方は、体力・気力・能力と長期履修・休学の制度を考慮しながら、無理せず楽しめる範囲で単位取得を進めていく計画でいます。
ゼミの教官は長く国内外企業のR&D部門で活躍された技術経営の研究者(博士:工学・知識科学)です。ゼミ生は大手製造業の研究企画担当者、都市銀行のIT担当者(文系出身)、外資系の半導体設計者、そして私です。お一人は女性でとても優秀です。外国籍の方はいません。ゼミは社会人コースなので、各自の関心領域に対する企業横断的な意見交換の場に近い雰囲気を持っています(「オープンイノベーションって、皆さんの会社では進んでいるんですか?!」のような感じです)。
さて、昨秋、ゼミの研究経過報告で「この技術を社会実装するには、、」とか「この仕組みを社会実装すると、、」と話した方がいました。私には社会実装と言う言葉がとても新鮮で「技術はLEGOブロックのようにカチカチッと社会に実装されるんだ。そうとすると、技術やビジネスアイデアの社会実装は事業活動そのものになる」と思い至り、これまで抱いていた企業戦略論やビジネスモデル諭への“もやもや感”が少なからず軽減しました。
社会実装をネットで調べてみると「社会課題の解決や経済発展を目指して、研究で得られた新たな知見や技術が社会にとって本当に有益かどうか実証する研究開発過程のこと」と定義されていました。工学的な技術開発だけではなく、法制度・経済活動・社会規範など社会科学・人文科学の知見も含んでいます。例えば、農業ロボットを社会実装するには、どの様な農作業があるのか、各作業精度はどの程度必要なのか、位置情報をどの様に把握するか、後方オペレーターの作業とは何か、高齢者や女性が操作するには何が必要か、公道移動への道路交通法との調整は可能か、利用価格・購入価格をどの様に決定するのか、など文理融合の知見が必要になります(右上図出所:http://www.innovative-kosen.jp/dev/)
日本社会は、昨年、リモート勤務やon-line講義の仕組みをまるで着物を羽織る様に一挙に身に着けました。今年もリモート診療や電子認証などの社会実装が進むと思います。将来的には、車のEV化と自動運転、水素インフラ、本格的な公共サービスのデジタル化、身近な所では家電・情報機器のワイヤレス充電、5G・POST5Gなど様々な社会実装が予想されます。既存の企業戦略論やビジネスモデル諭などを踏まえながら、「保有する技術シーズやビジネスアイデアをどのように社会実装させたのか」の視点で事業活動や社会活動を比較分析しても面白いもしれないと考え始めています。
以上