<<< 2020年1月以降の投稿は「投稿ARCHIVESⅢ」をご覧ください >>>

雑感

2019-12-01 (2014年博士課程前期卒業) 保浦卓也

 

ビジネスについての話題が続いたので、少し趣向を変えてエンターテインメントの話をさせて下さい。

 

最近一番驚いたことの一つが、バレーを見た時のことです。私はバレーにはほとんど興味はないのですが、たまたま友人に誘われて行ってみました。ロシア、サクトペテルブルグから来たバレー団の「アンア・カレーニナ」という出し物で、チャイコフスキーの交響曲や組曲などの一部をピックアップした音楽に合わせた、大変アクロバティックなバレーでした。「白鳥の湖」のような古典的なバレーと違い、モダンダンスの要素も入れて感情を鮮明に表す初心者にも楽しめる作品でした。驚いたのは、実は作品そのものや公演内容ではなく、観客です。私は時々コンサートに行きますが、普段の様子とは全く違うのです。まず、女性が多いこと、そしてより際立つ違いは年齢層です。若い人が圧倒的に多いのです。開演前と休憩時間は、場違いなところに紛れ込んだような落ち着かない気持ちになりました。バレーが好きな友人によると、古典的なバレーではその傾向はもっと大きい(より若い)のだそうです。実際自分が習っていたり、習いたいとあこがれていたりする人たちが観客の中心だからかもしれないとのことです。彼は慣れているのか、若い女性たちの熱気を楽しんでいるようでしたが…。

 (左上写真:エイフマン・バレエ「アンナ・カレーニナ」)

私がよく見るのはオペラですが、その観客層はバレーとはまったく対照的になります。老人も多く、平均年齢がかなり上がります。男女比は五分五分でしょうか。ですから、私はゆったりとアットホームな雰囲気にひたれます。若い頃は、公演回数も少なく録音を聞いたり、レーザーディスク(!)を見るだけというのが主でしたが、40を過ぎるころから割合熱心に公演を見るようになりました。よくよく考えてみると、公演回数が増えたせいもありますが、それ以上にオペラのティケットは高かったので手が届かなかったのが、少し手が届くようになったということでしょう。確かに、全体としてオペラの料金はバレーよりずっと高額だと思えます。もちろんフェアな比較などできませんが、少なくとも最高額の公演の金額はオペラがバレーやオーケストラを含む他のタイプのコンサートをはるかに凌駕します。オペラはコストのかかる芸術です。海外からの引っ越し公演など、気が遠くなるようです。まず演奏する歌手、オーケストラ(これは日本のオーケストラを使えるが、基本的には自分たちのオーケストラを使うのが通例)、指揮者、合唱団(これも演目によっては日本の合唱団を使えるが、連れてくることもある)、演出家(これはすでに本国で演じ慣れているので、もう来なくてもいい場合があります)、照明家(これも演出家に同じ)などを呼ばなければなりません。舞台装置も本国のものを持ってくるか、日本でその通り作るコストがあります。国産のオペラでもこれだけのコスト要素を考えると今の料金もやむを得ないのではないかと自分を説得して財布を開きます。もちろん、ランク(S、A、B,、C、Dなど)で格付けされているので、CやD(もっとも時には普通のコンサートのSに近い価格のDもあります)などで少し安く済ませる方法もありますが、見る芸術なのでいいポジションで見たいものです。

どちらが原因か結果かわかりませんが(オペラが高いから、高齢者が多いか、多少経済的にゆとりのある年齢層が来てくれるから、高いオペラが成立するか)、現状はオペラは高齢者(シニア)に支えられていると言えます。小さなパイですが、座席数2,000前後のコンサート・ホールをコンスタントに埋められるくらいのコアなファン層です(トランプの支持者層のようで恥ずかしいですが)。ただ腑に落ちないのは、興行主側がシニアのコア層の拡大に必ずしも熱心ではないように見えることです。短期的にはオペラ市場の拡大にはシニアを取り込むことが手っ取り早いでしょう。シニア・マーケティングです。なにしろ団塊の世代(69歳から72歳)だけでも2017年現在で632万人いるのです(1947年から1949年までの3年間は803万人生まれたので、21%しか減っていません)。これは広告業界で常に意識されるF1層(消費財のマーケティングの中心とみなされてきた20歳から34歳の15年間の女性。今はミレニアル世代に近いでしょう)932万人の3分の2であり、その周辺のシニアを入れれば、巨大な消費者層です。この層が消える前に、ここから十分な利益を上げるのがオペラ業界の急務ではないでしょうか。そのためには、オペラが与える「終盤の高揚感」(カタルシス)が、散漫なシニアの日常の中に、いかにはじけるような瞬間を与えるかを明確にシニアに的を絞って伝えるべきでしょう。それに成功すれば、市場が拡大しもっと多くの公演も可能になるはずです。しかもそれは欧米のように地方の都市にも広がるかもしれないのです(地方創生)。そのようなターゲットを明確にしたコミュニケーションもなく、オペラ楽団と出し物の紹介だけで終わっているのは怠慢と言わざるを得ません。シニアの一人として、ミーハーのファンとして切歯扼腕というのが今の心持です。(右上写真:トリエステ ヴェルディ歌劇場「椿姫」)

 

 

中国流通事情

         2019-11-01

2012入学 山本 和孝

 

明治大学大学院出身者2名と毎年中国の流通事情調査に出かけている。中国で最も多い店舗数で展開しているのはユニクロで623店舗ある。香港では28店舗ある。日本の店舗数が827店舗なのでいずれ追い抜きそうだ。イオンは蘇州市(江蘇省)、武漢市(湖北省)、杭州市(浙江省)、広州市(広東省)など成長著しい4つのエリアに集中している。店舗数は53店舗。無印良品は世界旗艦店(3000㎡前後の大型店)4店舗展開し、中国重視の姿勢を見せている。

 

ニトリの中国市場の店舗は3形態に分かれる。インテリア雑貨を主に扱う商業施設のテナント(2000~4000㎡規模)、家具を主に扱う大型店(7000㎡規模)、コンセプトストアの3種類だ。2006年に進出したが、その16年前にイケアが進出しており、苦戦を強いられている。

 

今回はイトーヨーカ堂について報告したい。イトーヨーカ堂は1997年 四川省成都に初出店した(写真上:成都イトーヨーカ堂)。最初は苦戦の連続だったが現在は地域からの支持度の高いスーパーとして定着している。特にその売り場づくりの完成度は他社の追随を許さないレベルの高さにある。そのサービス、商品の鮮度、品質について消費者の評価は高い。

 

この地域で出店するシヨッピングモールからイトーヨーカ堂への出店要請が多いという。従業員の教育にも熱心である。部門別の実技研修、通信教育などその教育体制は充実している。この店の研究活動としてユニークなものに「和食勉強会」がある。地域の料理店に出かけて、人気の料理、好かれている味付けを経験し、商品開発や試食宣伝販売に活かすという活動である。若手を中心に毎回50人ほどが参加している。この活動でたこ焼きを初めて食べたスタッフが感激してお客さま参加のたこ焼き大会を企画、人気の企画となった。この活動で実現した商品:Ex 山芋入りミックスお好み焼き、Ex 和風味のいか焼き。


  ※写真左上:売り場内に置かれた水槽から顧客が自分で魚をすくいその場で調理加工するサービスを行っている。

  ※写真右上:店頭の試食宣伝販売。

真左:漢方の調合サービス。柱をまく円筒の中には 漢方の食材、クコ

      の実、松の実など お客の好みの食材を組み合わせて、その場で

       分間にすり合わせてくれる。

 

三枝富博氏(明治大学法学部卒業) は  1997年中国 1 号店となる成都イトーヨーカ堂に出向。今日の中国イトーヨーカ堂を築いた。2008年に、中国国務省より流通分野の改革開放に貢献した功労者30に、唯一の外国人として選出された。2012年、日本人として初めて中国チェーンストアー協会理事に就任。2017年、日本のイトーヨーカ堂代表取締役社長 就任。

 

 

     

                              以上

 

 

コンビニも成長の終焉か?

 2019-10-01  

2015年入学 廣瀬 秀德

                 

10月1日より消費税が上がり、軽減税率導入があり、コンビニや外食等の価格をどのようにするのか、企業ごとに知恵を出し合っている。また、働き革命が進む中で、コンビや外食産業には深刻な人手不足に陥り、24時間営業や深夜営業をやめる動きも出てきた。特に小売業界で順調に成長してきたコンビニエンスストアに影が差してきたように思え、今回コンビニエンスストアについて私の体験を踏まえコンビニ業界について記すことにする(紙面の都合で、日本のコンビニ業界をリードしてきたセブンイレブンを中心とする)。

 

綜合スーパーのイトーヨーカドーがセブンイレブンを始めるより前の1973年、西友はコンビニの実験一号店を埼玉県の狭山市に開業した。私はその当時西友の物流部門にいて、コンビニに対応すべく商品の小分け物流等を行い実験店の支援を行った、その実験店の店長は同期入社の夫妻であった。セブンイレブンの本家である米社と提携してコンビニ事業乗り出したイトーヨーカドーに対し、西友は日本独自で事業を進めた。だが後発のセブンイレブン・ジャパンに大きく水をあけられることになる。1976年に堤清二は零細商店をつぶしてはいけないからコンビニはやらないと発言した。トップの消極的な姿勢が、ファミリーマートの経営に影響を大きく与えた。その後、独立商店主などに加盟を募るフランチャイズチェーン(FC)方式によって、ファミリーマートは本格に全国展開に乗り出した。西友の物流部はコンビニ専用の物流システムを作り上げ、成長拡大に寄与した。

 

一方、セブンイレブンは1973年米国サウスランドとライセンス契約を結び1974年5月に豊洲に一号店を開業した。当初からFC方式でスタートした。75年には24時間営業を福島郡山で開始した。76年には100店舗を達成し、ベンダーの集約と、共同配送を開始、78年発注端末による発注を開始、80年1000店舗達成、82年POS システム開始、87年米飯共同配送3便制の導入開始、東電の料金収納業務取扱開始、88年東京ガス料金収納開始、それ以降料金収納業務を拡大93年5000店達成、95年通信販売代金収納業務の取り扱い開始、96年ゲームソフトの販売開始、99年新型POS レジスター導入2001年アイワイバンク設立店内ATM導入、07年セブンイレブンが小売業として世界最大のチェーン店舗数を達成、ナナコの導入、共通PB[セブンプレミアム]販売開始、12年1月チェーン店全店売上高3兆円を突破、13年「セブンカフェ」の販売開始、15000店を突破、世界では5万店を突破、15年売上4兆円を突破、ネット通信「オムニ7」始動、16年鈴木敏文会長が退任した。

 

上記のように、セブンイレブンが世界最大のコンビニチェーンとなるまでの道筋は流通業界の常識にとらわれない、時には根底から覆す独自のビジネスモデル開発の連続だった。イトーヨーカ堂の創業者である伊藤雅俊はコンビニの展開に乗り出す時も、米国サウスランドを救済買収する際も慎重な姿勢を崩すことはなかった。大半のイトーヨーカ堂役員はコンビニ事業に懐疑的で新会社への出費を渋った。このためセブンの新役員らは銀行から借り入れをするなどして個人で出資した。鈴木ら個人にしても失敗が許されない環境に身を置き、退路を断ってのスタートであった。金がないから、フランチャイズにし、ベンチャーにも協力してもらい、他力活用でスタートした。いかに標準化を図り、建物、店舗設備、店舗開発コストを下げ、日本の消費者に合う鮮度を追及した品ぞろえをするかを作り上げることに邁進した。自然と日本のパパママストアの店舗などの資産を活用することから始めた。当初の立地戦略は商店街を中心に据えた。一号店の豊洲店は加工食品、日用雑貨など約3500品目を販売し、取引先は100社に達し、納品車は70台になる。注文も百社に電話し、伝票処理も多く、段ボール単位の納品で在庫も山のようになる。取引先を説得し商品の小分けとベンダーを集約し共同配送を行う仕組みを作り上げた。この共同配送が加速していった。多頻度、多品種、少量配送により一店舗当たりの経営効率は飛躍的に高まった。さらに物流改革は進められた。。

そして毎週火曜日にセブンイレブン本部にフィールド・カウンセラー(FC)が結集し、丸一日会議や打ち合わせをこなし、これから1週間の加盟店主への指導内容を固めるのである。必ず鈴木会長の講話がある。主に単品管理の話をする。いかに単品管理が重要なのかを鈴木は毎回繰り返し話す。それが徹底されセブンイレブンの強みにつながっている。そしてそのために現場発想の情報システムが作られ、改善され、マーケッティングにいかされ機会損失を削減している。情報システムはセブンイレブンの根幹の一つとして位置づけられるが、世界最大規模のデータ量を誇るコンピューターは自社所有ではなく、野村総合研究所のコンピューターセンターなどを利用している。「ヒト、モノ、カネ」のなかった創業時から、外部の資源をなるべく活用していこうという発想がセブンイレブンには強い。セブンイレブンは物流センター、配送車、総菜、弁当工場と、全て外部の業者が所有し、運営している。1979年に立ち上げた「日本デリカフーズ」もその一つである。その外部業者に対する指導も厳しく、セブンイレブンの方針に添って運営しなければならない。

セブンイレブン本部は酒販店酒や米穀店主、青果店主、あるいは脱サラしてコンビニ経営に乗り出そうとする人たちと一人ひとりFC契約書を交わし、店を作っていく。FC店は1つひとつの店舗に一国一城の主がいる、独立した経営体である。加盟店とのFC契約条件は、土地・建物を加盟店が用意するAタイプとセブンイレブンが用意するCタイプに分かれる。加盟料(研修費、開店準備手数料,開店時出資金)はAタイプで250万円、Cタイプで300万円、その販売什器やコンピューターなどはセブンイレブンが用意し、契約期間は15年、水道光熱費は80%セブンイレブンが負担する、チャージは各月の粗利益に応じて一定の割合を乗じた金額を支払う。Aタイプが売上総利益に対して43%を乗じた金額、Cタイプは売上総利益が250万円以下は56%、250万円~400万円66%、400万円~550万円71%、550万円以上が76%となっている。

 

セブンイレブン本部は加盟店経営を全面的にバックアップするため商品開発、情報システム開発、経営相談、販売設備の貸与、広告宣伝活動などに取り組み、一方の加盟店は、販売管理、商品発注、経営数値の管理などを行う。両者の役割分担を明確にし、円滑な店舗運営を実現し、利益拡大に結び付いている。また本部は最低保証制度として年間で1700万円から1900万円の支援をしている。

 

コンビニのビジネスモデルはドミナント戦略であり、同一地域に同じ看板のチェーンが数多くあることで消費者の認知が高まり、売上増に結び付く。本部と加盟店の共存共栄を支えるのが粗利益分配方式であり、粗利益の最大化が共通の目標となる。同じ看板でも店同士の距離がある程度保たれていたから共倒れも少なく、1チェーンで2万店前後の店の統制が取れた。新市場の創造が続いている間は本部も加盟店も栄えてこられた。しかし人口減やドラッグストアなどが市場を侵食し、経営環境は変わった。大手3社がそれぞれ47都道府県に店を構え、空白地はなくなりつつある。コンビニ飽和説と一線を画すセブンイレブンは2016年以降「シェア50%に向け突き進む」と明らかに市場の限られたパイの存在を意識し、年間1000店舗規模の出店でライバルを突き放す作戦に出た。だが店舗密度が増せば地域シェアは高まっても同じチェーンで同質化競争を招き、1店の粗利は伸び悩む。足の引っ張り合いになる。弁当などの売れ残りの大半が加盟店の負担で処分される。不満の種となっていた。地域全体の粗利の最大化は見込めても各店舗の粗利の最大化は望めない。いつしか独占と最大化の手法が本部の都合に変質した。セブンイレブンは魅力的な商品やサービスを出し続けるがそれでも1店舗当たり売上高は1日60万円代半ばで粗利益率は31%前後でほぼフラットである。本部が前期まで過去最高の営業利益を更新し続ける一方で加盟店の粗利益額は増えない。強い絆で結ばれた共存共栄に綻びが出ても不思議ではない。24時間営業への不満が噴出するのは当然である。コンビニ業界は社会・経済環境が激変する中で経営の根幹とすべきフランチャイズの真の意味と向き合いFC契約の抜本的な作り直しを迫られていることを強く認識すべき時だ。

最近社会的な問題として大きくとらえられたのは、セブンイレブンのスマートフォン向け決済アプリ「セブンペイ」の導入に失敗したことだ。今までのセブンには見られない初歩的な大きなミスである。人手不足問題でも加盟店から反旗を翻され、対応が遅く、FCチェーンが崩壊してもおかしくない出来事である。コンビニ業界が深刻な人手不足対策として「無人化」と「脱24時間営業」をローソンやファミリーマートが実験等をしているが、セブンイレブンの対策は見えてこない。コンビニ業界をリードしてきたあの革新的であったセブンイレブンの企業体質に影が差してきたのだろうか。やはり天井の壁がここにも表れてきたのであろうか。

 

又、コーポレートガバナンス、コンプライアンスの問題として、社外取締役からの鈴木会長への辞任勧告は、日産の西川社長の辞任まで結びつく社会的現象になりつつあるように思える。実務をしていない社外取締役の判断で、カリスマ経営者の鈴木敏文氏が創造した遺産が崩壊していくように見られるのが残念である。私は3年間ほどファミリーマートの取締役としてセブンイレブンとファミリーマートとの営業力の大きな差を体験し、悔しい思いをしたものである。業界の雄、セブンイレブンの落日を見ることがないように願っている。

 

なんとなくバタバタ

2019-09-01

2016年入学 原間 登

 

65歳でリタイヤし、シニア入試で入学した商学研究科を修了して、早いもので1年半が経過しました。入学当初より修了したら、古巣の銀行の関係で週2、3日働き、永年共に働いてきた仲間と過ごすのも良いなと考えていました。67歳まで、朝家を出て夜帰るという規則正しい生活をしてきたので、ゆったりとした生活を実践するつもりでした。そして、土曜日だけは、大学に来て外書購読を聴講しようと考えていました。

 

しかし、修了する頃になったら、銀行を取り巻く環境の変化でOBへの求人はほとんどなくなっていました。そこで、外書購読だけでなく、講義時間が重なり受けられなかった特論も聴講することにしました。もともと永年の夢を実現して入学した学校での聴講でしたので、希望するものだけ気ままに出席できる生活を享受していました。

 

そんな日々を送っていた時に、銀行が提供している寄付講座の運営スタッフが退職するので後任にどうかという話がありました。銀行OBにとって、大学で寄付講座を運営するということは馴染みがないが、大学院を修了しているのなら大学のことも分かるだろうと声を掛けられたようです。聴講との兼ね合いも不都合がなく、週に1日だけ働くようになりました。

 

現役(サラリーマン)時代、原則として家では仕事をしない主義でした。そのためか、家で勉強するより学校でする方が好きです。そのため、聴講の前後には学校に来て勉強していました。時間に余裕がある時には、修士論文で手を広げられなかった分野の資料も調べていました。内部統制に関する論文を読んでいたら、記憶に残っていた名前を見つけました。そして、大学院入学当初に、資料を漁っていた時に見つけた博士論文の著者である某女子大教授が、明治大学法学部の専任教授になっているのを知りました。

 

修士論文を書いたときは、監査論的アプローチから記述して、法的アプローチには手を広げませんでした。しかし、内部統制に詳しい先生の講義を聴講したくなり、お願いしたところ、単に聴講するだけでなく、発表もするならと受け入れていただけました。会社法での「いわゆる内部統制システム」、COSO関連事項の発表の準備やそもそも法学的な基礎がないので、商研在学中とは違った大変さがありますが、先生のコメントで新たな発見もあり、楽しく講義に参加しています。

 

そんなわけで、ゆったりとした時間を送ろうと思っていた生活がだんだん忙しくなってきました。現在は、火曜日は、早朝より会社に出勤して、寄付講座の立ち合いと運営の段取りを行い1日が終わり、水曜日も、1限に法研の聴講があります。木曜日は、シニア仲間と共に寺島実郎監修リレー講座に出席するために多摩大学に通っています。自宅から近いと思っていましたがいざ通ってみると、1日がかりになってしまいました。金曜日は、商研で2科目聴講しており、終わると8時半過ぎです。そして、土曜日は、お世話になった先生が主宰している会計学の研究会に出席するため、午後からグローバルフロントへ通っています。

 

この様に、在学中より、スケジュールが詰まっているような、なんとなくバタバタした生活を送っています。修了時には、ゆったりとした生活をしようと考えておりましたが、身体が動くうちはバタバタと暮らすのも良いかなと考えを改めました。しばらくの間は、皆様とご一緒にする機会も多いかと思いますがよろしくお願い申し上げます。

 

 

研究(リスクマネジメント:防ぐ)の現状 

-『丁寧な考察の積み重ね』の試み- 

2019/08/01

博士前期課程2016年度入学・博士後期課程2018年度入学 大蔵 直樹

 

研究面において、壁にぶち当たっている感がある。昨年、論文を寄稿したところ「随筆風」と評価され、書き直しを行った。その頃から、黄信号を感じ始めた。Academic by trainingの問題は、シニア研究者にとって固有の課題であるが、「丁寧に積み上げ、答えへ辿り着く道筋を探す」(松井彰彦)という思考過程の『詰めの甘さ』を、研究を重ねれば重ねるほど思い知る毎日という感である。丁寧な考察の積み重ねが、壁を破る鍵と考え、もがいて、もがいて、もがいている日々である。以下、大蔵の現時点の研究の到達レベルを示す素描を具体事例*1にて示してみよう。

 

1.例説(その1):サン=テグジュベリの夜間郵便飛行:中継基地における安全飛行対策 

(1)考察の契機:「様子見」について

サン=テグジュベリがフランスからアルゼンチン*2への航空郵便輸送を著わした『夜間飛行』(1931年)の序文にアンドレ・ジイドが「死活問題だ。昼間、鉄道や船にたいして稼いだ時間を、夜がくるたびに失うことになる」と書いた。航空郵便夜間輸送において「何もしないこと」、「様子見」は競争市場において利益喪失との認識を示したものだ。2019年1月30日の米連邦公開市場委員会にて、パウエル議長(米FRB)が「金融政策はリスク管理だ。状況が明確に把握できるまで、様子見すべきだ」との発言を行った。

(2)問題の限定:「多義性」の排除

中央銀行の役割(①金融システムの安定、②財政の持続可能性)からすれば、「様子見」も伝統的リスク管理策と判断することができる。競争市場である航空郵便夜間輸送と金融システムに責任を負う中央銀行では、同じ「様子見」という言葉であっても、異なる意味、すなわち多義性を持つ。そこで以下、サン=テグジュベリ当時の航空郵便夜間輸送に問題を限定し考察を進める。 

(3)マトリクス(クロス表)展開:『夜間飛行』(1931年)

死活問題」との認識は、夜間飛行実施の意思決定を行わず、したがって夜間飛行にむけての対策も実施していない場合に関する記述である。『夜間飛行』(1931年)において、ブエノスアイレスかチリのサンチアゴまでの夜間飛行実施の意思決定を行い、そのためアフリカ等のいくつかの中継基地における点検等の対策が立案実施されたことが記載*3されている。この記載内容に基づきマトリクス展開を行うと次の通りとなる。

マトリクスにおいて「-」としている第2象限と第4象限について、as if baseであれば補記が可能であるが、『夜間飛行』の内容と乖離することから行わない。

(4)グラフ化:2進法表記を加筆

上記表は意思決定が鍵語となっていることから、「する」「しない」という基準にて2進法表記を行い、マトリクスを完成させる。中継基地において実施された点検や万が一事故に遭遇した場合の対策内容は、PDCAサイクルのもとでの立案実施と判断される。                      

さらに平面0xy上に、2進法表記の座標(1, 1) (1.10) (10,1) (10.10)を援用しマトリクスの性質をグラフの第1象限および第3象限に表現することができる。

2.例説(その2):交通安全対策:from “Trust”to“Trust, but Verify”

(1)児童を見守る警察官:その問題点

下記イラストは、スクールバスに乗るため反対側の歩道まで横断歩道を渡ろうとする児童を見守る警察官、というモチイフであり、日常的に見られるものと言ってよいだろう。警察官の児童を見守る視線*5には、従来からの交通安全対策の基礎をなす“Trust”の考え方を窺うことができる。しかし、昨今多発する下記(2)のようなケースには、“Trust”の考え方では対応に限界がある。

 

スクールバスに乗ろうと横断歩道を渡る児童の見守りをするお巡りさん 

 

(illustrated by Okura/大蔵の手書きなので、その水準にはお許し願いたい)

 

 

(2)事例:何の落ち度もないのに

2019年5月8日、大津市の交差点で、歩道で信号待ちしていた保育園児らの列に軽乗用車が突っ込み、園児2人が死亡、男児1人が重体、8人が重傷、5人が軽傷を負った。何の落ち度もない園児等が被害に遭うという理不尽な事故であった。(写真出典:朝日新聞)

(3)問題の限定:散歩する園児の歩道での信号待ち

考察の対象となる事例は、上記(1)や(2)等が考えられるが、今回は、信号柱や街路灯、標識柱、防御柵があり、信号のある交差点におけるお散歩中の園児の安全対策、すなわち被害に遭う側に責任がないのに被害に遭う、ことを如何に防ぐか、という点に問題を限定する。

 

 

 

お散歩カートに園児を載せ、手押しする保育士さん。今や、おなじみの光景である。 (illustrated by Okura)

 

<参考> 交差点には、信号柱や街路灯、標識柱、そして防御柵がある。
                                 ※下図出展:交通事故総合分析センター『イタルダ・インフォメーション』No.82,March,p.11


(4)“Trust but Verify”について

YouTubeの動画(www.youtube.com/watch?v=22Lr4fgSFAY)に、1987年のINF Treatyの調印式においてレーガン大統領が“Trust but Verify”と語り、ゴルバチョフ書記長がそれに対して"You repeat that at every meeting"と笑顔で反応する姿が映る。“Trust”“Verify”は対立用語と考えることができる。普通に考えれば、信頼することと、検証確認することは矛盾するからである。しかし、上記(2)のような事例が多発していることを踏まえて考えれば、“Trust but Verify”の考え方にて対応せざるを得ない状況が生まれているといってよいであろう。

(5)園児を護る:“Trust”から“Trust but Verify”へ

“Trust”と“Trust but Verify”を鍵としてマトリクス表を下記に示す。

無謀運転の欄の「事故遭遇」(Trust)も「安全*6 」(Trust but Verify)も可能性に過ぎない。しかし、少し考え方を変えることで、将来ある園児たちの安全を守ることができる。実際に、このところの園児を載せたお散歩カートは歩道の左端ギリギリ、すなわち車道からできる限り離れたところを押し進んでいる。

(6)立ちはだかる壁

残念ながら「安全」確保の鍵となる信号柱や街路灯、標識柱、防御柵に自動車が衝突した場合の強度に関するデータが見つからないである。日本は車社会であり、信号柱や街路灯、標識柱、防御柵に自動車が衝突した場合、運転手がどの程度の損傷を受けるか、というデータなら存在する。したがって、信号待ち中の園児の安全対策についても、これ以上の丁寧な考察を進めることができないのである。

 

<補遺>“Zero Trust”:“Trust but Verify”の先に

2010年に Forrester Research のJohn KindbergがZero Trust Security Modelを提唱している。「決して信頼せず必ず確認すべきである」との内容であるが、たしかにサイバー・セキュリティの実態を踏まえるならば、かくあるべし、と考える。しかし、交通安全対策にこの考え方を適用するとすれば、現在まで作り上げてきた交通安全システムを大きく変容させることにもつながり、現状では無理がある、と言わざるをえない。現状では、“Trust”から“Trust but Verify”を定着させることに注力すべきであろう。         

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

*1.以下の事例は、丁寧な積み上げによる考察が難しいと感じていることを、説明するのに適した素材として本稿用に選定したものに過ぎない。

*2.20世紀初頭、すなわち『夜間飛行』(1931年)が書かれた当時のアルゼンチンは加速度的な経済発展を遂げていた。Maddisonによれば、

  1870年~1913年の年平均複利成長率は2.5%で世界最高である。約28.8年間で経済規模が2倍という速度の経済発展を達成していたこと

  を意味する。

*3.誌的余裕の関係から詳細省略する。

*4.1931年当時にPDCAサイクルにて安全対策を実施していた資料が発見確認されれば、それはそれで画期的なことである。

*5.警察官の具体的な問題点について指摘可能であるが、誌的余裕の関係で割愛する。

*6.Trust but Verifyの考え方のもとで、どのようにして「安全」を確保するか、という具体内容については、本稿においては誌的余裕の関係

    から割愛する。

 

自然科学の理論式と社会科学のモデル式の比較

  2019-07-01 

  (2016年度前期課程・2018年度後期課程 入学) 野尻 泰民

                    

新しい担当スケジュールになって、はじめて行う投稿になります。竹内さんの寄稿テーマの分類でいうと「1.研究等の近況報告」にあたります。内容は、今春に投稿した論文の中のモデル式を紹介して、「自然科学の理論式と社会科学のモデル式の違い」について私見を述べることです。異論があるかも知れませんが、お読みください。

 

まず、わたしの研究テーマですが、それはファインケミカル企業における研究開発投資が、企業価値や収益性にどのような影響を及ぼすかであります。つまり、企業が成長するためには、継続的に投資を行うことが必須と考えられます。そこで、今春の論文では、投資(研究開発・設備投資・のれん(M&A)の総称)の額と投資成長率および研究効率(特許登録率)の3つのパラメータを、カタストロフィー理論にあてはめて、モデル式(3次元の曲面)を提案しました。この曲面はクリステンセンの「イノベーションのジレンマ」、技術のS字曲線、製品ライフサイクル(PLC)等を説明しうるので、提案モデルの妥当性・有効性に関して一応の成果が得られたと考えています。

 

さて、ここで自然科学の理論式と社会科学のモデル式について、私見を述べたいと思います。たとえば、力学の運動方程式では、投げる方向と初速を与えれば経過時間に従って、位置(座標)が唯一に決まります。だれが行ってもどこで行っても唯一に決まりますが、その理由は、自然が律義に決められた法則に従って行動するからです。その法則が理論式であると考えられます。「はやぶさ2」が「りゅうぐう」に着陸できるのは、この理論によるものです。その他の熱伝導方程式、電磁方程式などは、すべて解は唯一に決まります。このように唯一に解が存在することが社会の進歩に役立ってきたのだと思います。仮に解が唯一に決まらないという意味で自然が気まぐれだった場合、自然現象はより複雑になり手が付けられなくなります。

 

一方、人の行動はある傾向は持っていますが基本的にあいまいでその判断基準はまちまちと考えられます。そのため人が介在する社会科学のデータは、バラツキが存在するのだと思います。上述の提案モデルは現象を本質的に記述していると考えていますが、視点を変えた他のパラメータによるモデルも存在すると考えられます。上述の提案モデルは、多数の中のひとつではありますが、企業価値や収益についての説明力は一番高いと考えています。

 

また、モデルによる解が、現実データと常に一致するかという意味では、精確だとはいえません。上述の提案モデルにおいても、パラメータを増やせばより精確になっていきます。たとえば、組織の活性度、人財の優秀性・やる気等のパラメータを増やしていけば、より精確になっていくと思いますが、それでもモデル式に合わないデータの外れ値は出てくると思われます。提案モデルで説明できない一部のデータが存在するのは、人が介在する社会科学では避けられないと思います。より重要なことは、パラメータの数を少なくしたモデルによって、多数の現象が説明できれば、本質を示唆していると考えられるということです。 

つぎに、社会科学において、実証的にモデル式に表すことの利点は、パラメータ間の因果関係を説明できることにあり、一方を増やしたときに他方はどうなるというような予測ができることにあります。逆に欠点は、説明できるのはパラメータの範囲という制約があり、パラメータ以外のことは基本的に論述できないということになります。

 

これに対して、著名な経営学者たとえばペンローズなどは、企業成長論を包括的に記述して、企業成長について説得力のある説明をしていると思います。包括的に論ずるアプローチと実証的に論ずるアプローチのどちらが優れているという問題ではなく、何を明らかにしたいかの問題だと思いますが、包括的に論ずるアプローチの方が、より新しい視点による独創性を要求されるような気がします。

 

さて、自然科学の理論式と社会科学のモデル式の比較に戻ります。すでに述べたように社会科学のデータはバラツキがあるため、実証分析ではよく仮説検定による何%有意という表現を使いますが、これは統計的に扱って妥当性・有効性を主張せざるを得ないからだと推測します。上の提案モデルから導かれた結果においても、中心値を示しており、自然科学における唯一性は期待できないということを述べたかったのであります。【写真:平成最後の小田原城のさくら】  

 

自己紹介を兼ねて

2019-06-01 2019年度入学 河合芳樹

  

平成最後の4月に明治大学大学院商学研究科に入学しました。専攻は財政学です。

 

4月、学割定期券を購入に行き、新宿駅で若い人に交じって並んでいると、係員が「通勤定期はあちらの自動販売機で買えますよ」と助言を受け、「いや、学割定期券を買いますから」と言い、学生証を見せたときは、妙な気分でした。

 

40数年振りの学割です。もっとも、東京都美術館などは学割よりもシニア割引の方が安くなるし、上野動物園では私と孫は無料ですから、これからしばらくは学割とシニアの特権を使い分けていくことになります。そんなことで、通学して2ヵ月が経とうとしていますが、ある種の満足感を感じながら定期券を改札機にかざす日々を送っています。

 

授業は6教科を受講しています。経済系列は受講者が少なく、緊張感はあります。他方、40数年前とは違って、自身の経験を投影しながら考えることも出来、適度なオブリゲーションと学ぶことを楽しみながら取り組んでいます。ただ、1時間近く本を読んでいると、目はかすみ、次の行や列を間違えることもあり、記憶力の衰えだけでなく、目の筋肉の衰えを痛感している日々でもあります。

 

大学院に入ったのは、地方財政についてまとめてみようと思ったからです。40数年前、社会人となり、不動産関係業務に2年前まで携わってきました。偶々、社会人になって間もなく不動産鑑定士の資格を取り、不動産の鑑定評価を通して、昭和60年代以降、当時の自治省や国税庁の委員会で、固定資産税や相続税における評価の体系化、制度化に関与しました。その後、組織内で度々異動し、鑑定評価以外に再開発や各種のコンサル業務も担当しましたが、固定資産税関係には、今も携わっています。そうしたことから、今年70歳の古稀を迎えるに当たって、不動産と固定資産税の両面から、地方財政に絡めて自身の仕事をまとめたいと思い、財政学を専攻しました。

 

武道館で行われた4月7日の入学式では、3人の孫のうち、真ん中で、私と相前後して小学校の入学式を迎える孫が2階の保護者席に、私がアリーナ席に坐りました。今年3月までの2年間は、立教セカンドステージ大学に通い、受講した学部の授業でのグループディスカッションで自己紹介をした折、「私のおじいちゃんと同い年です」と言われた時は、いささかショックでしたが、そうした世代ギャップには免疫ができました。

まだ、授業が始まって2ヵ月を経ていませんが、経済学などを学び直しますと、多くを忘れていて、経済学の内容も40数年前とは異なってきています。そうした意味では、新鮮な気持ちで臨んでいます。好奇心を持って、楽しく学べればと思っています。 

 

大学院2年間の雑感

2019-05-01 (2017年入学) 山口岳男

 

今年の3月26日に商学研究科を無事卒業することができました。思えば2017年4月に入学し、2年間の大学院での研究や学びは振り返ってみればあっというまの出来事に思えるのですが、一方では大変充実した2年間であったようにも思います。そこでこの2年間で私は何を学び、これからどうしようと考えているか思いつくまま述べてみたいと思います。

 

3年前に40年ほど勤めていた会社を退職したのですがその会社では人事マネジメントや人材開発をグローバルで実行するための政策・施策の企画立案実行などに携わってきたことに関連したいくつかの事柄に常々関心を持っておりました。整理してみると大きくは以下のような3つの領域に関心があったように思います。

 

第一の関心領域は日本人ビジネスパーソンのリーダー育成という点です。社内の日本人リーダーと目される人のリーダーシップに大いに危惧を抱いたためです。今、この点に関して何の手も打たなければ日本企業のグローバルビジネスやオペレーションは外国人が主導し、日本人のビジネスパーソンはグローバルなポジションには配置されないことになる。野球に例えればフィールドで戦うのは外国人、バックヤードでグランド整備と道具整備は日本人となるということです。日本人のグローバルポジションが消滅する、という危惧を持っています。今や多くの企業でそうした事態が発生しており、こうしたことに対する危機感を強くもっていました。したがってグローバルなビジネス現場で闘える日本人ビジネスパーソンをどう育成するかというのが問題意識でした。

 

第二の関心領域は上記と関連するのですがビジネスでの共通言語たる英語に関する点でした。チームに外国人がいたり、上長が海の向こうにいてもレポート関係にある以上は使用言語は英語になる、日本にいても必ずしも仕事相手が日本人とは限定されないことなどから、仕事で英語が必要となる事態が圧倒的に増えてきたという事があります。外国人との会議や交渉で発言しない、主張しないと指摘されるがその原因は何なのか。日本人にとって仕事で通用する言語能力をどうつけるかというのは大きな問題であったし、私自身、英語の一流の使い手になるべく努力しました(しかし全く未だし、です)。ですからこのことは実は個人的にも乗り越えなければならない壁であったように思います。

 

そして第三の関心領域は日本の企業がグローバル化に大きく舵を切る中で日本的雇用制度を一体どういう方向に向かわせるべきであろうかという点です。私自身、ビジネスのグローバル成長に資するための人材マネジメントの構築を人財部門全体の大きな取り組みのひとつとして実行する中、明らかに伝統的な日本的雇用制度から離れる方向の政策決定に動いていたことは間違いありません。目指す人財マネジメントの姿は欧米のグローバル企業の欧米流のそれでは決してないと思っていたのですがどこまで行くのか模索しながら進めるといった状況であったように思います。

 

以上のような関心領域を持って大学院の2年間、その関心領域の幅を広げ学問的に少しでも深められるような事ができればと思いながら科目を選択し、全く不十分なのですが学んできたように思います。こうした中で修士論文のテーマは紆余曲折いろいろありましたが最終的には「多国籍企業の言語戦略と日系多国籍企業への提言」として少なくとも上記の第一と第二の領域をカバーしようとしたのです。結論的にいえば日本のグローバル企業は言語戦略を策定する必要がありその言語戦略があってグローバルなビジネスを牽引できるリーダーを育成することが初めて可能になる。論文ではその学問的な根拠と方法論を提示したつもりです。

さて「言語戦略」という言葉は聞き慣れない言葉だと思います。実は言語戦略という言葉は米国ハーバード・ビジネス・スクールのNeeleyら研究者のここ数年の研究報告で使われ始めた謂わばビジネスと言語研究における「流行語」とも捉えられるのですが、しかしそれは単に言語の障壁を乗り越えるための多国籍企業の施策のひとつという位置付けではなく経営戦略やビジネス目的を達成するためになくてはならない企業戦略であるという考え方に立脚して言語戦略という用語を選択しているように思えます。そこには「企業戦略の一部としてあるべきもの」という強い意志を感じます。従って単なる用語選択の問題と捉えるのではなく、言語戦略を通じて多国籍企業の競争優位を創造するという意図を内蔵していると解釈すべきであると考え、私も論文ではこのような趣旨で使用しています。因みにNeeley (2017) の最新著作である “The Language of Global Success  How a Common Tongue Transforms Multinational Organizations”にも「言語戦略」という言葉はあっても言語政策や言語管理という一般的に使用される言葉はどこにも見当たらない。つまり競争優位という観点から多国籍企業は言語の重要性を認識し、経営目標を達成するために経営戦略と連動させた言語戦略を策定すべきだという主張をしています。グローバルビジネスで言語が様々な障害を引き起こしているのに、これまではビジネスの中で言語を取り上げた研究はとても少ないし、取り上げられたとしても異文化コミュニケーションなどの中でわずかに触れられるだけです。このために研究者が「多国籍企業マネジメントの忘れさられた要因」「国際ビジネス研究の孤児」などと呼んだりしたわけです。しかし状況は一変します。多国籍企業と言語戦略研究への関心は2000年前後から高まり、90年代後半から2000年にかけてパイオニアともいうべき数多くの研究が出現しました。その研究を見ると欧米系多国籍企業が言語戦略や言語政策によって言語やコミュニケーションの引き起こす問題を解決しようと腐心し様々な手を打っていることがわかります。また、そうした研究は多国籍企業の組織や社員に与える影響などの点においても重要な知見を提供しています。これらは非英語圏の北欧諸国とヨーロッパ中心の研究です。しかし日本ではほとんど研究らしい研究はありません。日本の企業が言語の問題を経営のアジェンダとして位置ずけていない事が大きな要因であると思います。今こそ言語戦略を策定すべし、というのが私の主張の一つですが皆さんどうお考えになりますか。これ以上は『実践知の創造と伝承』ー2018年度シニア院生「研究成果」報告書ーに譲ることにします。

 

さて、第三の領域についても触れたいと思います。実はこれに関連したクラスは商学研究科には見当たらず経営研究科の「経営社会学特論」、「経営労務特論」、とそれに関連する英語経営文献研究の3つのクラスを受講したのですが、マクロには資本主義の多様性の議論からスタートし、次いで日本の労働経済、労働市場、雇用問題、そしてミクロには個別企業の雇用制度に到るまでをカバーしており、私が会社で業務として実施してきたことと照らし合わせて考える事ができましたし、それ以上に学びという点では大きいものがありました。振り返ってみると会社でこの20年にわたって行ってきた人事改革は日本の硬直化した雇用制度をどう変えていくかへの試みであったと思います。今の日本的雇用慣行は働く人を一つの企業にとどめることを目的に形成されてきたものであり、それはある一定の条件下では優れて競争優位であり日本企業の強さの源泉であったと思いますが「ヒト」基準の仕事のやり方、評価の仕方、当該企業だけに通用する企業内教育訓練、会社主体の人事異動、複雑怪奇な労働時間管理法制、管理者従業員双方のマインドに刻印されている年功的慣行等々、硬直化した日本的雇用慣行の元でビジネスのグローバル化、グローバリゼーション下での成長、イノベーション、多様化等が進み、結果として過労死などの問題を生んだのではないのか。これに歯止めをかけるのは自己責任とフレシシブル化の人事労務管理ではないかと思うのです。目指す世界は次のような世界です。個人が何をやりたいかをベースにキャリアを描き、自分の価値観と会社の価値観をアラインメントしてみる。価値観が合わなければ会社にはいる必要はなく、辞めれば良い。個人がいつでも辞める用意がある意識とやめることができる選択肢があることが個人と会社の関係を対等に近づける。やめる選択肢には流動化した労働市場が必要です。自己実現を求めて自由に会社間を異動することができる世界を作る。成果を目指し成し遂げたいことが仕事の核心になると時間管理は意味を持たなくなる。こうして極めて自己責任ベースのフレキシブルな環境が生まれると思うのですが皆さんどうお考えになりますか。

私の勤務した会社ではグループ全体で国内20万人おり、毎年の人事異動で数万人の社員が異動する。しかし自己のイニシアチブで異動するものは皆無である。考えてみると異常ではないか。自己のキャリアデザインで社内外の労働市場を自由に異動することで今の硬直的な日本の人事慣行に風穴が開くと思うのです。どこまでを狙うかをはっきり言えるほど知恵があるわけではありません。ただ着地点が欧米のような状況や雇用制度ではないことだけは確かでしょう。

 

さて、今年一年私はどうしたいのか、です。

第一の領域である言語戦略とリーダー育成については今年もいろいろな機会にビジネスパーソンに発信していきたい。ビジネスセミナーや人事部門相手のカンファレンスなどで話をしてみたい。第三の領域については継続して更に学んでいきたい。最後に第二の領域である英語については英語の「熟練者」の域に達したいという無茶な無謀な目標に向かって努力したい。

 

最近、増本康平著『老いと記憶』中公新書2521という本を読んだのですが、記憶の本でもあり生涯発達学の本でもあります。その中に書かれているのですが、発達心理学者のエリクソン教授は高齢期の発達課題はアイデンティティの統合と絶望のバランスをとることであるといいます。高齢期には「あの時こうしておけばよかった」という変えられない過去に対する後悔、健康状態が悪くなること、みじかな人との別れ、社会的地位といった現在進行形で進む喪失、そして避けることができない死と自分がいつどのように死ぬかわからないという未来に対する恐怖や不安に直面し、程度の差はあるが全ての人が絶望感を抱くというのです。絶望と統合のバランスに必要なものとしてこれまでの経験を思い出し再検討しようとする意欲、そして年老いても成長し続ける為のやる気と努力が大切だと言っています。この2年間、皆さんのやる気と熱意にどれだけエネルギーをいただいた事か。この場を借りて感謝します。また、著者は熟達者とされる技能の獲得には1万時間の訓練が必要となると言われており、それは1日三時間で10年程度で可能だと主張しているのです。ならば英語の「熟練者」の域に達したいというのもそれほど無茶な無謀な目標ではないと勇気付けられた次第です。そして「何かを始めるのに遅すぎるということはない」という著者の言葉を胸に今年も引き続き本学大学院で聴講生として学ぶ予定です。ではキャンパスでお目にかかれることを楽しみにしています。 

                                                                                                                                       以上

 

「住友財閥と武田薬品」

2019-04-01

(商学研究科2016年度入学、経営学研究科2019年度入学) 新貝 寿行

 

商学研究科を3月26日に卒業し、この4月からは明治大学大学院の経営学研究科(修士課程)に新たに入学します。商学研究科のシニア院生・OBの皆様には、引き続きグローバルフロントや図書館などでお会いする機会があると思いますので、今後共宜しくお願いします。

 

(以下、慣れ親しんだ修士論文の文体に替えます。) 

経営研究科では佐々木聡教授(日本経営史)の指導を受ける予定である。その事前準備として、春休み期間中には経営史の古典と言われる本 ― 例えば高橋亀吉の「大正・昭和財界変動史(全3巻)」やチャンドラーの「経営者の時代(全2巻)」などー にできるだけ目を通してきた。それらの中でも興味を惹かれたのが1980年に出版された「財閥の経営史的研究」(森川英正著)である。日本の経営史研究にとって「財閥」は重要なテーマであり、これまでにも多くの論文や本が出ているが、この本では特に財閥の意思決定プロセスに注目し、トップ・マネジメントの人的要素に焦点を当てている。


ここでは、この本から「住友財閥」を紹介したい。住友家は江戸時代から続く老舗で、別子銅山の経営と札差業を営んできたが、明治維新によって大名への貸付金回収が不可能になり、経営は逼迫することとなった。明治中期までは収入の大半を別子銅山に頼っており、この時点での実質総資産額をみると、明治時代に入ってから創設された新興財閥で、同じ銅山業(足尾銅山)を主力とする古河財閥とほぼ同規模だった。しかしながら、その後、住友は金融、貿易や重化学工業分野など産銅業以外の分野へ積極的に進出して急成長した一方、古河は多角化が遅れ、この結果、昭和初期の資本金総額は住友が古河の3倍となり、大きく差をつけることになった。

 

この理由として、著者はトップ・マネジメントの違いを挙げている。資本の所有者たる住友家は「君臨すれど統治せず」との姿勢で、外部の専門経営者に事業の経営を全面的に委任していた。外部から海外留学経験のある有能なプロフェッショナル人材を数多く招いてトップやこれを補佐する経営陣に登用し、強力なリーダーシップの下で経営の多角化を推進した。一方、古河は創業者が死亡した後、後に総理大臣になる原敬が副社長に就任したり、政治家の井上馨が補佐役となったり、プロの経営者ではない政界の実力者達が大きな影響力を持ったことからトップ・マネジメントの人脈は交錯し、経営内部環境は複雑を極めた。このため、多角化戦略において、意思決定が停滞し、住友に大きく遅れを取ることになった。

 

そして現在、話題になっているのが武田薬品工業である。江戸時代から230年以上も続く老舗は、2014年に社長に就いたフランス人のクリストフ・ウェバーが、昨年、日本企業としては過去最高の6兆8,000億円を投じて同業のシャイアー社を買収した。この件はその金額の巨大さと共に創業家一族の反対がマスコミなどで大きく報じられた。創業家はウェバーの社長就任時に続いてシャイアー買収にも反対し、記者会見も行って臨時株主総会での買収反対投票を呼びかけるなど、その対立が注目を集めた。また、買収に伴う借入金返済のため大阪本社を売却することになりOB達が嘆いていること、多くの幹部ポストを外国人が占めて日本人社員の中途退職が相次いでいることなど、同社の経営に批判的な報道が続いている。

 

ただ、ここでは見方を変えてみたい。すなわち創業者一族ではないトップが外部から入り、インターナショナルな人材を充実させ、大胆に事業の多角化・拡大を図る姿は昔の住友財閥と重なって見える。ウェバーは経済誌日経ビジネスのインタビューでこう述べている。「過半数を占める社外取締役も含めた取締役会を何度も開き、リスクの判断・シナリオプランニング・長期的な成長性などをディスカッションした。その結果、取締役会の総意として最終決定ができた。」旧知の日経新聞記者に確認すると、「カルロス・ゴーンとは異なり、ウェバーはマネジメントの総意を重んじる経営者。社外も含めた日本人取締役に今回の買収について取材したが、オフレコでも『反対』の意見は全くなかった」とのことだった。

 

これまで日本の大企業のトップにとなった外国人経営者は、カルロス・ゴーンは勿論、ソニーのハワード・ストリンガーや日本板硝子のクレイグ・ネイラーなど、いずれも最後は追われるように会社を去っている。シャイアー買収の成否が明らかになるのは暫く先になるが、仮に成功して武田薬品が世界のトッププレーヤーになれば、日本の経済界だけでなく日本経営史という学問分野にとっても、今回のケースは「外国人経営者による大型買収・経営多角化の成功の要因」を探る一大研究テーマとなろう。

 

ということで、買収の成否を見届けるまで、なんとか経営学研究科に在籍したいと願っている次第です。

 

仏蘭西旅日記

2019-03-09  2015入学  鈴木 佳光

 

【2月21日(木)】7時頃、大きな旅行バッグ2個とパソコンの入ったリュックサックを背負い、マンションを出る。事前に測った荷物の合計約57KGの大半は長女一家への日本食と書籍などで、歩くのが大変。ちょうど来たタクシーに乗り東京駅に向かう。ラッシュアワーの前で比較的スムーズに成田エキスプレスに乗車する。

 

成田空港でチェックインし、ラウンジで2月分の投稿原稿を考える。33年ぶりのパリ行きにちょっとテンションが上がる。フライトは非常に快適で、昼食は先ず、シャンパンの後、魚の料理をたのみ、酒は佐渡の大吟醸「真野鶴」、次は「シャブリ」を3杯、締めは「アルメニアコニャック」で爆睡。

 

定刻の15時40分にシャルル・ドゴール空港に到着したが、12時間は長かった。迎えの会社名を書いた看板を持っていた人がいたので声をかけ、他の同乗者を待ち、市内へと向かう。高速道路を下り、一般道を走ると車内からは犬を連れて歩いている人々、CAFÉや飲食店、パン屋、酒店(ワイン)、タバコ屋が多いことに気がつく。また、さまざまな人種が行き交っているが、物騒な感じはあまりしない。

 

18時頃マンションに着く。荷物を整理し、シャワーを浴びていると、息子が帰宅。大好物の牡蠣とホタテ、サーモン、若鶏の丸焼き、チーズ、サラダとワインで歓迎される。22時頃就寝するも、夜中に目が覚め、時差ぼけ気味。今まで海外でこんな経験はなかった、歳をとった証拠か?

 

【2月22日(金)】8時頃、息子が孫を長女が孫娘を連れて、小学校、幼稚園に送りに行く。長女は9時半頃戻り、一緒に近くのマルシェへ。新鮮な野菜・果物、牛肉・豚肉・鶏肉・鴨・羊・ハム・ソーセージ・チーズ・牡蠣・ホタテ・ムール貝・サーモン・アジ・サバ・エビ・カニや淡水魚などの農・畜・水産物、雑貨、衣料、花や植木などの店舗が道路の両サイド約5百メートルにわたって営業している(写真下左:マルシェにて/牡蠣専門店)         

 

午後、孫娘を迎えに行く途中で息子に会い、ちょっと散歩。山口県の旭酒造が「獺祭」を販売しているアンテナショップに立ち寄り、シャンゼリゼ通りを凱旋門近くまで歩く。孫は今日で小学校の授業は終了、休暇に入るという。フランスの学校は6週間の授業の後は2週間休暇だと言う。16時過ぎに小学校を出て、17時半からのエッフェル塔の近くの地元のサッカースクールに通っているというので、一緒に行き、約1時間の練習試合を観戦、チームは9−2で勝利。孫はコーナーキックでアシストを達成し興奮気味(写真下右)。


【2月23日(土)】遅めの朝食の後、一家で地下鉄に乗り、モンマルトルへ行き、ケーブルカーに乗り、サクレ・クール寺院を拝観する(写真右)。その後トラム(路面電車)に乗り、モンマルトル付近を巡る。途中、ムーランルージュの歓楽街も通過、キャバレー、セックスショップ、ラブショップの看板がやけに目立つ。遅めの昼食を近くのビストロ(小レストラン)でとり、散策して、有名なお菓子屋(A L‘Etoile d’Or = ア・レトワール・ドール)でチョコレートを買い、地下鉄で帰宅。夕食は牡蠣、ホタテ、サーモン、チーズとビールとシャブリ。

 

【2月24日(日)】午前中は孫がサッカー教室へ。私は家でのんびり。明大大学院生でパリに留学しているKさんから26日の昼食の了承をいただいたので、その返事や、他メールチェックなどに時間を使う。昼は軽めの食事をしてから、近くの公園を散策。一週間休暇を取って、モンサンミッシェルからベルサイユ宮殿を見物して、夜、パリ入りした次女と合流。遅めの夕食はマルシェで調達した新鮮な魚介類にチーズ、サラダに赤・白ワイン3本を空ける。

【2月25日(月)】孫娘を幼稚園に送った後は休暇中の孫と4人でエッフェル塔近くを散策。どうしてもサッカーボールを離さない孫と15分程練習に付き合うと腰が痛くてGIVE UP。次女が行ってみたいという、居酒屋(STAND BAR)に2人で行く。昼からこの店は子供連れが多い。休暇の証拠か?店長お勧めの白ワインを各2杯、つまみ何品かオーダーして78ユーロ。そして、ノートルダム大聖堂に向かう。その後、長女と孫と再び合流して、孫娘を迎えに行き、有名なCafé(Carette) でお茶する。バスで帰宅し、夕食は近くの北アフリカ(モロッコ)料理店「Le Tipaza」。クスクス料理(小麦粉の粒状パスタ)が有名で、初めてモロッコワインを味わう。

 

【2月26日(火)】火、水は幼稚園が休みなので、朝8時に6人全員で出発、パリで一番高いモンパルナスタワー(写真左)の56階の「Le ciel de Paris」で朝食(Continental Breakfast)を取る。フランス一の高さ。市内やエッフェル塔が良く見える。その後、マルシェで買い物をして、一旦家に戻り、午後日本人シェフの予約の取れないレストラン「Le So I’Y  Laisse」(リソリセス)に向かう。Kさんを囲んで、楽しいひと時を過ごし、大満足。赤・白ワインが空いた。Kさんは元気そうで、頑張っている様子でした。夕方、エッフェル塔に上り、夕焼けと夜景を楽しみ、近くのフランス料理店(Chez les Anges)に行く。遅くなったので、UBERでタクシー呼び、帰宅しようとするも、乗車限度は4人で、大人2人はバスで帰宅。

 

【2月27日(水)】日本人のスタッフのいる家の近くのビストロ(L’Os a Moelle)で昼食。次女は午後ルーブル美術館に行く。私と長女たちは一旦帰宅。1時間ほど昼寝の後、セーヌ川クルーズ(写真右)に出かける。次女と乗船場で待ち合わせ、16時30分発の1時間クルーズを楽しむ。バスで帰り、次女が自称得意なパエリヤ料理に挑戦、結果はお焦げ付きパエリヤとなったが、牡蠣に、ホタテ、サーモン、若鶏の丸焼き、ハム、チーズとシャブリにモエ・シャンドンがお焦げをカバーする。

 

【2月28日(木)】スポーツ洋品店でナップザック、スーパーでワイン、缶詰などを買い、サンドイッチと生ハムとサラダで昼食。午後、UBERタクシーを予約し、シャルル・ドゴール空港に向かう。チェックインを済ませほっとする。あっという間の8日間でした。

 

=感想= 

最近のパリは物騒であると思っていたが、印象はそうでもなかった。移動には一日乗車券を使うと7.5ユーロ(約950円)でバスも地下鉄も乗り放題、3−5分毎に来るので大変便利。地下鉄は多少臭いがあり、犬を連れて乗って来る人も多いし、道路のあちらこちらに糞が転がっていたりする。また、乞食さんが至る所で見られ、女性の喫煙が目立ち、朝からCaféで 喋っている光景が珍しくありません。レンタル自転車も街で見かけます。買い物客のマルシェでの支払いを見ていたら、現金とクレジットカードが半々ぐらいで、レストランでは殆どカード払いのようでした。長女からは人に会ったら、必ずあいさつ「Bonjour!」、最後は「Merci!」ということを忘れずにと言われました。

 

日本大使館のHPにメルアドを登録したら、週末の「黄色いベスト運動」に関する注意喚起などがタイムリーに送付されました。海外に行かれる場合は、HPをチェックされると良いですね。今回はワインと牡蠣を中心に飲食をエンジョイした旅となりました。

 

1858年に徳川幕府と日仏修好通商条約が結ばれ、1867年の第2回パリ万博には徳川慶喜の弟の徳川昭武が将軍の名代として派遣され、その代表団には優秀な若手が選抜されました。そのメンバーの一人として渋沢栄一がおります。彼らが見たフランスや欧州の世界がその後の日本の近代化、工業化に結びついたことはご承知の通りです。志の高い彼らに想いを馳せる旅でもありました。Merci beaucoup!  

 

この先の人生・・・

2019-02-21 (2015入学) 鈴木佳光

         

1月末に修士論文の試験を受け、どうやら卒業見込みとなりました。この4年間、指導教授のサポートはじめ多くの教授やシニアのみなさまとの出会いは、大変貴重なものとなりました。また、演習や授業における質疑応答などの適度な緊張感はサラリーマン人生では味わえない新鮮なものでした。お世話になった大学院事務室、メデイア支援室、図書館のみなさまにあらためて感謝申し上げます。

 

さて、私が社会人となった1974年は、戦後の高度経済成長が終焉し、早いもので、それから約45年が過ぎようとしています。団塊の世代に連なる我々は「何とか逃げ切りの世代」ではないかと思っておりますが、このまま老いるわけにはいきません。子供は自立し「亭主元気で外が良い」の状況において、新しい学ぶ場所や自分の居場所を見つけ、生きがいのある生活を模索していかなければならないと考えています。また、次世代へ伝えるべきこともあるのではとも思います。 

そこで、4月以後の人生プランとして、立教大学のセカンドステージ本科に応募し、新たなフィールドを見つけました。また、当大学院の聴講生としても授業を受ける予定です。さらには、宗像さんの投稿にもありましたが、気の合う仲間と野外活動としてぶどう園のオーナー制度や一坪農園会員に加入し、農業体験や野菜作り、ワイン仕込みなどに係わり、最終的には大宴会や温泉巡りを目的にみんなで楽しみたいと思っています。

 

そして、肩肘を張らずに家族(仲間や友人も含む)、からだ(健康)、こころ(生きがい)、かね(経済)の4K大切にして、そのバランスを上手に取りながら、健康寿命80歳を目指して、しぶとく生きたいと思います。

 

取り敢えず、目先の70歳までの目処がつきましたので、みなさまに報告し、半年前にパリに赴任した長女一家に会いに行ってきます。28日まで滞在予定ですが、原稿の締切もありますので、写真付きの旅日記はまたの機会にしたいと思います。今後とも宜しくお願いします。@成田空港  

 

これからの農業・農協を考える。

        2019年2月1日 商学研究科2015年入学 宗像 善昌

 

今回も2018年11月下旬に長野まで「リンゴ狩り」に行ってきました。手入れ作業は農家に任せ、収穫時に現地に刈り取にいくという気楽なオーナーです。昨年と違う点は大減産で前年の半分位しか実がついておらず、我々の収穫も減ってしまい、残念でしたが農家の人にとっては死活問題であって大きな痛手だったと思います。原因は何度となく風台風の襲来で、暴風に吹かれ枝スレが発生しリンゴの表面に傷がついたり、落果したという事です。収穫したリンゴは選別され、表面に少しでも傷のついたものは販売商品にならず自家消費用となる。それにあの夏の猛暑で受粉した「めしべ」が焼け枯れしてしまったことや、水不足で玉伸びせず全体的に小玉で歩留まりも悪く農家にとっては散々な年でした。自宅持ち帰りは昨年600個に対し今年は200個と大幅に減りましたが、それでも楽しいリンゴ狩りでした(写真:一枝に30個位のリンゴがなってる状態)。 

   【追伸・・「今年は収穫量も少なくごめんなさい。」との理

    由で、今年の管理費を受け取りませんでした。逆に裏山に

    なっている渋柿をいただき、自分で干柿(写真掲載)を作

    りました。⇒良心的な果樹農家です。】

 

素朴な農家の人達の為に何か役立ちたいと、前回の投稿以来農業に関心をもって接しております(農家の人達と卸売業・流通の話をしている)。今回は農業を成長産業に転換していくため、国が本腰を入れてきた農政改革の現状を報告したいと思います。

自分の修士論文の結論に地方の中小食品卸業再生のためには、地域内の他産業や農業との協業化を進めるべきと述べましたが、成果は上がっているようです。実際に16年秋には自民党農林部会長の小泉進次郎議員の「農協改革」発言以来、農家にも農協にも変化があらわれ、資材価格や、農協指導にも、農産物の販売方法にも変化がでてきました。また、中小食品卸売業と農家(6次産業化)等の協業化も実現される。ここで「農協改革」が言われるのは、日本の農業は、農協組織のもとで育成されてきた。そこでは、農家が地域共同体の一員として機能し、その共同体が生み出す成果とその各農家へのフィードバックの極大化が求められてきた。他の産業は、個別企業のビジネス展開によって進化してきた経緯と比べ、大きな違いがある。経済が量的に成長している時には農業共同体の様な集団が担う効果は、相対的に大きくなるが、成熟期に入ると個別企業の革新力が経済発展の推進力になる。農業にも同じことが求められており、現在、農協改革が進められているのも、こうした要請に応えようとする動きだと言える。

 

大事なのは、農業は地域産業として最も古いものの一つであり、その地域の自然や風土・文化の固有性を発揮できる産業である。大事な基幹産業だが農業経営に関心のある人が少ない事と簡単に素人が参入できないことに難点がある。組織の改革、アグリテックの開発が進めば、少子高齢化のマイナス面をプラスに転換可能な産業となる。今回は、農業の基盤となる農協の巨大化の中に問題点が指摘され、安倍首相自ら農協改革断行を宣言した。

 

2015年8月に改正農協法が成立(16年4月施行)し、全国農業組合中央会(JA全中)の監督・指導権を廃止が決まった。農業協同組合(農協)はJA全中を頂点に全国農業協同組合(JA全農)や農林中央金庫(JAバンク)の全国組織があり、その下に都道府県レベルの組織があって、さらに末端に約700の地域農協が組織されるというピラミッド構造の組織。JA全中は監査と経営指導を通じて地域農協を統制し、資金を吸い上げてきたので、この権限がなくなれば地域農協の自由度は拡大され創意工夫の余地も出てくるとの見方が強い。

 

改革ターゲットは農協の経済事業の主体であるJA全農である。JA全農は地域農協を通じて農家に肥料、農業機械などの生産資材を供給し、農家から出荷した農産物や加工品の販売を行う流通機能を司る。しかし農協が売っている肥料や農薬は市場価格に比べて高く、ホームセンターやアマゾンの価格の方が圧倒的に安い。流通商社の様なJA全農の存在が、日本の農業を高コストにして競争原理を妨げているというのが政府の見解となった。これを解体することが農協改革の目玉の一つで、政府の考えている改革案が「株式会社化」だ。

 

JA全農の年間取扱高は5兆円近い。肥料・農薬・農業機械でも圧倒的なシェアーを誇り「協同組合」という理由で独占禁止法の適用も免れてきた。法人税も安い、固定資産税免除などの優遇措置も認められる。JA全農は既得権を剥がされる「株式会社化」は大反対で、株式会社化を見送らせてきた。農協の政治(農林族議員)の影響力を削ぐという様な思惑も感じられるが、農業改革につながるのは、全国に700ある地域農協の「株式会社化」であろう。協同組合では反対があれば何も行動を起こせないが、株式会社は51%の賛成で意思決定が出来る。

 

株式会社化して従来の農協への追従から、会社経営に意識が変わると、売上・利益・効率等々儲かる農業へ関心が高まる可能性がある。自由な発想で考えれば前出のアグリテックだろう。最近では「下町ロケット」でAI搭載の無人トラクターが話題になったがICT(情報通信技術)・AI、I0Tなど最新テクノロジーを活用した農業が主流となる。(農産物は何でも無駄なく商品化できる・・写真:渋柿から作った自家製干柿) 

AgriTechの中身

 

①眼…人間の見えないものが見える(高所からの視点、赤

   外領域、農産物、土地の内部)。

②頭脳…システムに移植することで、非熟練者でも高度な

    判断が可能(自動制御、AI、ビッグデーター分

    析+経営者・熟練者の判断)。

③手…効率化に加え人間では困難な精密作業も可能(自動

   運転農機、農業ロボット、環境制御ロボット「植物

   工場」、農業用ドローン、自動給水)。

 

・国内の農業就業人口は減少の一途をたどるが、見方を変

 えれば一人当りの農地の増加というチャンスになる。

・効率的に付加価値の高い農産物を生産できるAgriTechは日本農業のV字回復の切り札。

・少子高齢化による労働力不足問題と、外国人移入問題の解決策にならないだろうか。

・農業のすばらしさは、土が時間と引き換えにモノに代えてくれる(自給自足が可能)。

・今年の夢は、同期の鈴木佳光氏と山梨方面の葡萄園で「ブドウの木オーナー」となり、

 最終的にはワイン造りが出来れば、楽しもうと思っております。

・平成31年元旦の初日の出です(右上写真:木場大橋よりイースト21のビル群の間に顔を出す太陽)。

 

                                            以上

 

「金(きん)を求めて」の旅

 2019-01-01 (2013入学) 髙松 俊和

 

12月初旬に宮城県多賀城市と同県遠田郡涌谷町を訪ねてきました。本年5月に東北歴史博物館で開催された「東大寺と東北展」で展示されていた砂金の検証が目的でした。東大寺大仏のめっきに使用された金の一部との古資料の確証を得たい、また展示物の砂金があまりにも僅かで、国内で約13㎏もの砂金を採集することが可能であったのか疑問でした。

 

訪問目的は、

   1. 金の産出遺跡と周辺の環境を観察すること。

    涌谷町教育委員会の担当者からの説明と資料収集。

   2. 8世紀の北の辺境である国府多賀城の管理地域の確認。

 

金は主に貴人の装飾品に用いられていたが、仏教が広まると仏像や寺院の内装などに大量の金が使われるようになる。海外からの交易、貢物であった。8世紀に入り、銀、銅、錫、水銀などの大仏鋳造の金属材料は、金を除き国内で供給可能となった。多少の備蓄はあったと考えられるが、めっき用の金不足は切迫した問題であった。

 

我が国最初の産金は、749年に当時陸奥国守であった百済王敬福(くだらのこにきしきょうふく)が献上した900両(約13㎏)との記述が続日本紀にある。鋳造が終わった大仏のめっきに使用された。産出遺跡のある黄金山神社を訪れると、以外にも砂金を採取したと思われる川は幅1m位の小川であった。こんな小さな、流れが緩やかな川で砂金が? 現場を見ての第一印象でした。

 

しかし現在でも、この小川で金を見つけられるとの話を伺った。ただし、圧倒的に量は少なく、以前現地の文化財保護班の職員10名で一日に採取した金は、0.0823gとの事。およそ1300年前でかなりの量が採取されたと想像できるが、金含有の鉱石を精錬するのと違い砂金を13㎏、それも2~3年でとなると、何程の人員が投入されたのか、北の辺境の地で公民や兵が多数居住していたのか、私の頭は謎と不思議が入り混じっていました。

 

担当者から提示された資料に、約13㎏の金を献上した後に、この地域の郡に「毎年成人男子4人につき1両(14g位)の金を納める税が課された。」との記述があり、到底不可能な量を課すとも考えられず、継続的に採取できたのではないかとの説明でした。この地域を管理していた多賀城を訪れて、居住人数を考察してみることにした。また、帰京後に見た文献から産出遺跡だけでなく、この地域一帯で砂金が採取されていたらしく、今後の発掘調査に期待するところである。 

右の写真が13㎏の砂金(レプリカ/容器長径37cm,内側のアクリル ドーム直径26cm)。金の比重は、純金ならば19.3なので見た目の量はそれほど多くはない。大仏に使用の金の総量は約101㎏であり、13㎏で約1/8。残りの大半の金は、当地から納められたのか、公民や兵を投入出来るほどに多賀城は大規模な都市(?)であったのか。

 

西に対新羅の九州防衛拠点である大宰府、東に対蝦夷の陸奥国府多賀城と言われている程度の予備知識しか持たずに訪れ、多賀城跡を見て驚いた。単なる軍事施設だけだと想像していたが、政庁跡や廃寺跡などを巡ると、大宰府を一回り小さくした規模ではあるが、思い描いていた以上に大きな行政・軍事の拠点であった。

 

同市埋蔵文化財調査センターでの説明では、7世紀前半には周辺にすでに大集落があり、724年に多賀城が設置された。730年代には、涌谷より北に城柵が2か所造られたので、産金地はすでに支配地域に入っていたことになる。多賀城以北に27郷あり1郷は50戸、1戸当たり成人男子2人とすると、2,700人となる。毎年4人で1両の金を課されていたので、675両。産金地域防衛の小田軍団兵士数が1,000~1,200人で構成されていたので、仮に半数が従事し、同様に採取できたとすると125両。計800両が毎年貢金されたことになる。5年で4,000両とすると大仏の金めっきの大部分がこの地から調達されたことになる。東北の金の採取は更に北に進み、奥州藤原氏の栄華の象徴である平泉のジパングとなる。

 

多賀城は「万葉集北限」「大友家持の終焉」「漆紙文書の発掘」の地でもあることを初めて知りました。

「金を求めて」でしたが、楽しい研究課題が増えた旅になりました。