「金を求めて」の旅 その3

2020-12-15(2013入学) 髙松 俊和

 

貪欲な私が始めた金を求めての旅も今回3回目。振り返ってみると、

 

Ⅰ.金を求めての旅 その1

東大寺廬舎那仏のめっきに使われた金の産出地を巡って、100㎏以上の砂金が採取可能だったのか自分の眼で確認したい。そんな思いから始めた旅。一昨年は、宮城県遠田郡涌谷町の黄金山神社周辺を訪れた。担当者からの説明を受け、大半が平城京に貢進されたことに納得。それでも、大仏全体では、8,000~10,000両(101~130㎏)の金を塗ったはずである。当地からは、必要な量の半分程しか調達出来ないことに疑問が残った。聖武天皇に報告するかなり前からこの地で採取していて蓄蔵していたのか、あるいは箟岳山麓(当神社も南側に位置)の発見されていない産金地があったとも考えられると、今から思えばかなり曖昧な推理で合点。

 

Ⅱ. 金を求めての旅 その2

金に魅せられた私は、昨年、11世紀末から100年間奥州藤原氏の栄華の地であった平泉を訪れた。蝦夷の支配地の北進を進めた同氏の中尊寺金色堂や庭園、館跡などを巡り、陸奥国の数多ある金山からは奈良時代の十倍から数十倍の金が採取されたと思えた。権力者への贈与、東大寺大仏再建時のめっき、中国からの経典購入など金の使用に関する資料は残っているのだが、極秘である故か戦乱で焼失したかは定かでないが、産金に関する資料はなく、また金山への入山も私有地や登山道未整備などで許可されなかった。藤原氏は、「黄金」で繁栄し「黄金」で滅ばされたと言える。

Ⅲ.金を求めての旅 その3

さて、この旅を今後どうするか。時代を下り甲斐金山、佐渡金山へと向かおうか漠然と考えていた折に、昨年偶然見つけた栃木県の碑。大仏のめっきに使われて、我が国最古の産金と書かれたこの石碑を無視して先に進む訳にも行かず、8世紀に戻らざるを得なかった。今春、県内馬頭町や那珂川町、八溝山周辺へと計画していた矢先のコロナ蔓延。やっと10月に現地に入った。私は、下野国が金の産地とは知らなかった。何度も読んだはずの東大寺要録(以下要録)の1行“天平十九年 九月二十九日 従下野国。奏|聞金出来之由也 云々”を見落としていた。読んでいたのではなく、眺めていたのかもと自省。

 

前記のように大仏だけで8,080両の金が使われたが、陸奥国からは当初に納められた900両、その後5年間税として課された3,375両を合わせても4,275両。不足分が多すぎる。陸奥国内で前もって準備していた、周辺で産金などと解釈していた。栃木県馬頭町郷土資料館、なす風土記の丘資料館を巡り、郷土愛あふれる学芸員の方からの説明や提示された資料を拝見した。茨城県と福島県の県境にある八溝山の名は、繰り返された隆起と川の浸食で多くの溝を持つ山からで、地元の人から黄金山とも呼ばれていた。また周辺では、後年福島県白河市、茨城県大子町などに産金地が確認されている。

 

和歌の歌枕に詠まれた「那須のゆりがね」砂金を含む土砂を水中で揺り動かして取る方法でその際に使用したとされる「ゆり板」や那珂川町周辺で採取された「砂金」の展示を見て回り、確かにこの地が産金地であることは間違いない。

 

那須の産金については、「要録」に記述があり、天平十九年(747)年12月に下野国より黄金が産出との知らせ。陸奥国の産金より2年近くさかのぼる。石碑に記されたのは、これが根拠である。正しければ確かに“最古”と言える。

 

八世紀の産金については、陸奥国は律令国家の正史である続日本紀、要録、扶桑略記などに見られるが、下野国については、要録のみである。九世紀には本格的な生産が継続して行われていたと考えられるが、遺跡や資料が未だ認められていない。十世紀の延喜式には、下野国・陸奥国両国から中央に金が納められていた記述。ここで2つの疑問が浮かぶ。

  ①「要録」に産金に関する複数の記述があるのはなぜか?

  ②下野国の産金に関して、九世紀以降も何故多くの資料の記載されていないのか?。十世紀の「延喜

   式」、十一世紀の「水左記」に金を正税について記述あるが。 


「続日本紀」は、日本書紀を継承する第二の国史であり、奈良時代を総括した書。戦国時代末に焼失したが、直前に複数の写本が作られ存在。一方、「要録」の成立は十二世紀初頭で東大寺の寺詩。産金記事は、およそ350年前の出来事である。十二世紀には奈良時代の官大寺であった頃と比べ衰退、記録も失われて寺勢回復を意図して伝聞・旧記を収集、編集した。編者不明であり、原本はなく、現在見ることが出来る要録は、再編集や増補した伝本を13世紀に書写した醍醐寺本と15世紀に書写した東大寺本の2種類が主な写本。

 

当初(本願章の部分)は、続日本紀などから意図的・選択的に引用しているが、その後東大寺に関する記述はとにかく引用しておくという姿勢に転換している。最初にできた要録の上に何層も積み重なって、次第に堆積して現在に残る形になったと言える。中世の視点でまとめたとなると、歴史資料としての信憑性を疑う記述が含まれていることも前提としなければいけないのかも知れない。実は「要録」にある下野国に関する産金記事は、伊勢大神宮禰宜延平日記からの引用である。当日記については、筆者の思索が随所に反映された偽書との指摘(多田實道氏)もある。宇佐神宮と伊勢神宮、石山寺と東大寺、神仏習合を絡んで政権中枢の権力闘争などもう訳がわからなくなってきた。

 

もう一つ、渡来人と産金の関係も考えてみたい。日本国内での鉱物や金属に関する知識は、朝鮮半島や唐に比べて劣っていた。産金のあった朝鮮半島の諸国のほうが、知識が豊かであったはず。産金先進国の技術に頼らざるを得なかったと推測できる。朝鮮半島と中国の情勢をみると、半島では新羅・高句麗・百済の三国の支配が5~6世紀に不安定になり、中国では7世紀に統一した唐が領土を拡大。660年百済、668年高句麗が滅ぶ。663年白村江の戦い(日本・百済軍と唐・新羅軍の戦い)。

 

百済・高句麗の滅亡に伴い、王族・貴族をはじめとして多くの人々が亡命した。なかには政府の高官となる者もいた。唐・百済・新羅・高句麗など中国や朝鮮系の渡来人が数多く居住する多民族国家であり、この当時の総人口540~600万人の渡来人が内3割に及ぶとの研究者もいる。渡来人は中央から離れた東国などの遠隔地に配され、その後日本に渡来する人々が増加して、百済系と新羅系を別々の地に移住させていた記録もある。

 

当時の行政区分の東山道では、下野と陸奥は隣国。涌谷町は陸奥の北端。それより北は蝦夷地で中央の支配が及ばない地域。渡来人の存在が濃厚にうかがえる地域で、後に金が産出されている。陸奥国の産金に関わった陸奥守百済王敬福は、従三位を授与。敬福は百済国王族の末裔。産金関係者叙位9名のうち4名は渡来系(主に百済系)の人物。下野国は7世紀末帰化新羅人の記載があり、また“しらぎ屋敷”と呼ばれる地もあり、那須の産金は、新羅系技術者、僧侶の関与が考えられる。だが、関係者に叙位の記録はなく、90年後に健武山神社に官位が与えられているだけである。百済系には厚遇する一方で新羅系の冷遇はなぜか。新羅系は、嫌われていたの?

 

我が国最古の産金に関し資料を読み進めてきたが、私の結論は、

  ①下野、陸奥のどちらが最古なのかは、判断出来かねた。おそらく陸奥の方が先であったと私は考え

   るが、違っていても数年~数十年。両国ともその後の金の供給地として重要であったはず。最古か

   どうかは大した問題ではない。

  ②神道と仏教など宗教関連は、浅学な私には難しくて深追いはしない。

  ③“渡来人”は研究テーマとしては、面白い。

 

さて、来年は何処へ行こうかな?。楽しく、気ままな旅はまだ続けられそうです。

                                              以上

 

5年前の「研究計画書」

2020-12-01 (2016年入学) 原間 登

 

今年度も相変わらず聴講生を続けています。とは言え、コロナ禍で、昨年までとは様変わりしてしまいました。ほぼ毎日、在宅というコロナ前には考えられない生活を強いられています。在宅していると、従来なら気が付かなかったことが気になります。

今年の梅雨は例年に較べ雨が多く、湿度が高かったせいかもしれませんが、大学院在学中に購入した書籍(50年以上経過した古本も多し)や集めた資料等の山が何となく黴臭く感じました。これは拙いと思い、天候が安定して、晴天が続いたお盆過ぎに、書籍を陰干し、資料を整理しました。整理していたら、シニア入試の出願書類で提出した「研究計画書」の写しがありました。GF-Masterの皆さまも、「研究計画書」を作成したと思いますが、提出した修士論文はそれに紐づいているでしょうか。私の場合かなり異なったものになりました。

 

シニア入試では、実践知に重きを置いています。私は、銀行での最後の職場であった業務監査部で感じた「内部監査って何?」をテーマに選びました。長年勤めていた銀行でのことですが、3年半しか関わらなかった「内部監査」をテーマにしました。内部監査に関する資格であるCIA(公認内部監査人)の試験勉強はしましたが、国際資格であり、米国の資格試験を日本語で受けたもので、日本における内部監査についての知識は無に等しい状況でした。

 

入学する3カ月前からは、勤務の合間を見つけて大学図書館に来て(大学院事務室に依頼すると入学前でも図書館に入館できます。)、多少勉強しましたが、入学時、学問としての「内部監査」の知識は「零」に近いものでした。入学後は、内部監査の書籍を漁り、じっくり読みたいものは、古本を入手しました。そして、内部監査の黎明期を探るため、会計史の文献にも当たりました。「零」からのスタートで、なかなか研究が進まず、研究室で島村さんにぼやいた記憶があります。GF11階の研究室で毎日、朝から夜まで研究をしている島村さんの姿に接して、私も頑張ろうと、通学していた日々も懐かしい思い出になりました。

内部監査の起源について明記したものもなく、私なりに、現代の内部監査に繋がる創成時期を探求し、内部監査の資料が多い1950年から1980年頃までの文献にも当たりました。そして、近時の内部監査に関する先行研究を調べました。さらに、現代の内部監査の実態を把握するため、内部監査に従事している十数人のCIA(公認内部監査人)に対するインタビューを行い、かなりの時間を費やしました。そして、M2の夏休み明けから、3カ月弱で、論文を書き上げ、2年間の院生生活もあっという間に終わりました。

 

2年間という期間では、会計学や監査論の知見からのアプローチしか出来ませんでした。しかし、修了後も周辺領域の学問からも新たな知識の習得に務めていたら、別の視点から見ることが出来るようになりました。今回、「研究計画書」に書かれた内容を見て、在学中には叶わなかったが、今なら、1章追加して、論文に1本筋を通すことが出来るように思いました。

 

シニア入試の説明会に参加して、期限に間に合わせて、慌てて書いた「研究計画書」でしたが、問題意識を持って、純粋な気持ちで作成したものだと再認識しました。「研究計画書」を書いた時の気持で、これからも「内部監査とは?」を探求し続けたいと思います。

 

 

 

小売業の海外進出、その成功と失敗

                                                                                      

                                                                                         2020-11-15 (2012年入学) 山本和孝

 

バンコク伊勢丹、28年の歴史に幕。イオン・タイ、スーパー20店舗を閉店。武漢イオンモール3店目をオープン。小売業がある国で成功し、ある国では失敗する。その要因を追って見た。

 

(1) バンコク伊勢丹

バンコク伊勢丹は1992年2月にバンコク市内都心部に開業した。6階層で品質の高い日本製品を扱いタイの富裕層から根強い支持を受けていた。2019年2月の営業利益は前年度比較約7割減の2500万円となった。開業後しばらくはバンコクの代表的百貨店として人気があったが近年はショッピングモールや大型小売店の出店が続き低迷した。前回の広瀬さんが寄稿した「流通革命史からみた百貨店業態の凋落」にあるように、「時代の変化に対応して、自らが変わり、新しい需要をつかむという」セオリーを実践できなかったということかもしれない。

(2)タイ・シラチャ・イオン

バンコクから南下すること約2時間、シラチャという街の中心部の住宅街にシラチャ イオンが出店している。小型スーパーにツルハ、ダイソーなどの専門店が16店舗ほど併設されている。シラチャはタイランド湾に面した小さな町である。1990年以前は小さな漁村であり。建物や人口も少なかったが1990年以降、周辺工業地帯へ日本企業が進出し日本人が多く住むようになり、世界でも有数の日本人街に

成長している。                          

                     

シラチャには「日本海」「姉御」という日本名が屋号の居酒屋がある。漁港が近いせいか刺身の鮮度はバツグンである。また「妖精」「天使」といったカラオケバーがあり、ここの女性群は日本の歌謡曲を見事に唄いこなしている。イオンシラチャから1キロmほどの中心街にシラチャのランドマーク的存在のロビンソンというショッピングモールがある。その地下にTOPSという地元のスーパーがある。2店舗の面積はほぼ同じ、品揃えも大差は感じられない。同じ時間帯で客数を比較するとイオンはTOPSの半分以下である。イオンは後発組であり、不利な立地にならざるを得ない面もあるが出店立地の選定ミスと言わざを得ない。

 

(3)イオンモール 武漢経開店

このモールが立地する武漢市経済開発区は、外資系企業や大学などが集積し、急速な発展を続ける中で、多くのマンションの建設が続いている。商圏人口はオープン当初の172万人から5年で216万人に増加している。2018年のモールへの来店客は前年比10%増の188万人となっている。このモールでは60店舗の飲食店がありエリア最大の飲食店街を展開している。更に今年度は全体の3割の店舗を刷新した。このモール

の成功した要因はエリア内最大の核となるゾーンを持つこと、合わせて常に進化する努力を怠らないことと考えられる。

                                              以上

 

「リンゴの木 オーナー」の続編 

就農者の「今・昔」と100年農家のコロナショック

                                              2020年11月1日

                                                           (2015年入学) 宗像 善昌

 

令和2年3月中旬から半年以上、コロナ禍でステイホーム生活を余儀なくされておりますが、今までの平穏な日常のありがたさを痛感させられました。今回は、100年以上続く農家の人達の歴史感と農業で培ったコロナ対応、新規就農者の現状に関しての話題が中心です。

 

【新規就農者大歓迎】

閉鎖的だと思われていた農村に変化が見られ、農村に移住して農業に携わりたいという人が 近年、増えている。農業の持つ魅力や都市生活にはない農村暮らしの魅力に、多くの人が気づきはじめたともいえる。農林水産省の統計で新規就農者数*は2006年の8万1千人から2014年には5万1千人に減少し、2014年には5万8千人となっている。年代別で最も多いのが60歳代以上であり、2006年が3万9千人、2014年が2万7千人である。50歳まで含めれば、50歳以上が2014年で6割以上を占めている。農産物を販売している販売農家の農業就業人口は2015年、平均年齢が66.3歳と高齢化と減少が進んでいる。これもあって、45歳未満で自営農業を始める就農者に対して、青年就農給付金を支払うなど対策が行われている。しかし、若い人達だけでなく全体の6割以上を占める50歳代、60歳以上の新たに農業に携わった人たちも、農業、農村に新しい風を吹き込んでいる。60歳代以上の人達が新たに農業を始めた理由には、「農業が好きだから」「農村の生活(田舎暮らし)が好きだから」「自然や動物が好きだから」といった自然・環境志向や、「食べ物の品質や安全性に興味があったから」「有機農業をやりたかったから」といった安全、健康志向からの理由が多い。農業は、人間にとって日常的に必要不可欠な食糧を生産する産業である。また、農業は自然の一部である土地を主要な生産手段にして、その上で生物(植物・動物)の成長力、生命力を利用しながら生産を行っている。農業生産は自然と完全に切り離して行うことは出来ず、自然の再生産過程の中でしか行う事ができない。そのため、農業は環境を創造する産業でもある。こうした農業も、現代社会では高度に発達した産業社会・商品経済の中で行われている。そのため特に若い人たちは、農業経営においても「経済効率」を往々にして求めがちである。その中で、60歳代以上の人達の「農業が好き」「田舎暮らしが好き」「自然が好き」という思いは、農業・農村社会のいちばん奥底にあるものにかかわる意味を持つといえる。50歳代、60歳代以上の人たちもそんな難しい事を毎日、考えて農業に携さわり、農村で暮らしているわけではない。1980年に20歳代前半で農業をはじめた、新規就農の先輩格の人に、「新規に就農し、農業を続けていく秘訣」を聞いたことがある。「あたたかな雨の後、野菜の種がいっせいに芽を出した。そんな日常的な小さな幸せ、喜びを感じつづけること。小さな幸せを積み重ねていくこと」「そうした積み重ねの中で風の湿りぐあいや、陽の光の暖かみが五感で感じ取れるようになる」―そう答えが返ってきた。新規就農者を迎える言葉であった。           *新規就農者: 農業以外の仕事をやめて自営の農業を始めた人を新規自営農業就農者、独自に農地と資金を調達して農業を

                        はじめた人を新規参入就農者、農業法人などに新たに雇用され農作業をしている人を新規雇用就労者の合計として捉える。

 

一方で、代々農業を引き継いできた農家(後継問題、農地の分割などの問題を抱えている)の歴史感、独自のコロナ対策など話題は尽きない。明治時代から現代にかけての農業史(農地解放や農業移民・開拓団)に関して再認識させられた。農家の人びとのたくましさ、コロナ感などを書き添えてみました。

【農家の長老から見た農業の変遷】

今年で、戦後75年を迎えたが、戦前を知る最長老の当時の話をまとめると。

 

あらゆる産業が常に変化しているが、日本の農業ほど歴史的にみて大きく変化している産業はないと思う。明治時代には富国強兵を目的とし、食糧増産が重視され、農村人口の固定化と地主制度による農地拡大が図られた。農業者はそうした共同体を生活の基盤としつつ、地主の保有する農地で小作人として生産に従事していた。当時は工業化比率も低いため、農村人口の他産業への流失も少なく、その固定化も容易であった。農業技術も低く単収も少なかったため、国内の農地開拓だけではなく、海外にも領土を拡大しつつ農地を作り出していった。この方向は第二次世界大戦まで続いた。(右上の写真 昨年11月鈴なりに実ったリンゴ/私の契約した「リンゴの木」です)

 

第二次大戦後、海外の領土がなくなって国内農地に限定され、農地改革などにより農業者が運営する農地面積が狭小化したため、農業の規模効率を追求するよりも、単収を高める技術開発とその普及に力点が置かれた。これに大きな役割を果たしたのが、単位農協を基盤とする農協ハイアラーキーであり、これを助成したのが政府の農業政策であった。従来の地主制度を基礎とする封建的な村落共同体から、単位農協を要として農業者(地主のもとで小作をしていた人達)を組織化し、より民主的な地域共同体に変わったのである。それだけではなく、農業者は農協ハイアラーキーとこれをバックアップする仕組みを通じて、技術の進歩を享受できたほかに地域を超えた調達ルートや販路も確保することができ、農協の一大恩恵として捉えている。

 

技術志向型農業

第二次大戦後、食糧難に対処するため政府は農作物の輸入政策を展開した。この輸入政策と同時に、技術進歩とそれによる単収増加によって、従来と比べてより少ない労働量で農業生産を行うことになったため、農村における余剰労働力を創出したという点にも注目したい。この労動力が成長する他の産業、特に工業に流出していくことになる。この時代の農業の技術進歩と輸入拡大は、労働者の産業予備軍をつくり出し、これが日本の経済成長を支えてきたと農家の人は自負している。

 

利益追求企業型農業

現在、上記の技術型農業は変わりつつある。まず、他産業が成熟期に達し、労働力に関して量より質を求めようになったため、農業から剰余労働力を吸収する必要性が薄らいできた。次に、世界的にみた人口増加による食糧難への危機意識は、農業に市場機会を見出す経営者を増やしており、他産業からの参入を促してきている。いま1つ、市場のグローバル化*の中で日本農業も国際競争力を確保しなければ存立が危うくなってきている。これからのことは、日本の農業経営が政府や、農協などに依存してきた家業的農業から脱皮して、利潤動機に裏付けられた企業型経営に転換することを心掛けている。農業従事者の考え方が未来志向になってきたと同時に、新規就農者の決意を促す状況になってきた。

                * その象徴が「TPP (トランス・パシフィック・パートナーシップ)」で、北米、オーストラリア、アジア、日本と太平洋を

            取り巻く12カ国で関税など貿易の障害となっている規制を取り払って自由貿易をやろうという協定。 

 

私が農業にこだわるのは、修士論文に机上で『中小食品問屋の生き残り策のなかで地域内の他産業や農業・漁業の一次産業と協業化を進めるべき』と考え結論づけたためです。農業を知る必要があると思い、『リンゴの木オーナー』制を選び、農家の人々を通じて交流を深めています。

 

家族で毎年6月にアンズ、11月にリンゴの収穫を年中行事として楽しんでおります。交流はLINEと、収穫の時の農作業が主体。農業を通して広い視野、考え方を参考にさせてもらってます。感心することは農家の人は「弱音」を吐かない。昨年11月の収穫は夏場の集中豪雨、長雨の影響で実ったリンゴが落下して不作となりました。今年の春のアンズの花は満開でアンズ豊作を期待してところ、季節外れの4月の大雪で花芽が落とされ不作となり、農家にとっては大きな痛手が続いております。加えてコロナ禍、売場の縮小・減収が続いても、「自然には逆らえない、来年良くなるさ!」で気持ちを切り替える。この切り替えが出来なければ農業を続けてはいけないと感じた。

 

コロナ環境に関しても、都会の人々とは視点が違っている。彼らは新型コロナウィルス発生の頃から、その脅威を自分たちで記録していた。今回のコロナ騒動は今後の世界史に残る出来事と感じ、記録、対策を実行してきた。農業は毎日の出来事を作業日記に記録する習慣があるので、彼らの記録の一部を除かせてもらいました。

 

100年農家の長老達が見た新型コロナウィルスの対応とは

新型コロナウィルス感染症拡大を防ぐため「人との接触を避けるように」と日本中で叫ばれているが信州在住の100年農家の主は「会いたくとも人がいない田舎」で今日も畑で農作業。

今、実感しているのは、「人間は自然界に生きている存在であり、ウィルスとの共生を目指すしかない」ということ。そのためには何をすべきかを農村から提起してもらった。(コロナ禍概要、対策)

 

【新型コロナウィルスの猛威】

中国・湖北省武漢市発の新型コロナウィルスの影響は世界に飛び火、各国が非常宣言を打ち出した。日本でも日常生活の混乱ばかりか農業・企業活動にも大きな影響をもたらした。

 

経済的影響

特に、外国からの入国規制は、旅行関係だけでなく流通業・飲食店での売上減少の原因になっている。特にインウバンドの主役である中・韓両国からの入国制限強化は関連事業のすべてにおいて大幅な減収を強いられている。19年の訪日客3,188万人のうち、中国からは959万人で全体の30.1%、消費総額は4兆8,113億円のうち中国が1兆7,718億円、36.8%ともっとも多いだけに影響が大きい。現実に今年3月の訪日客は、前年同月より全世界で93.0%減の19万3,700人、特に中国は98.5%減の1万400人となっている(観光庁発表)。さらに感染防止へ休校や展示会・イベントの中止、延期もあり多くの機会損失やコスト増の影響を被り、株価の下落を招いた。

 

パンデミック宣言

世界保健機関(WHO)は3月11日、世界的な流行を意味する「パンデミック」の状態だと認定した。パンデミック、それは国境を超える感染症の広がりは、古くはペスト、スペイン風邪、最近ならエボラ出血熱、SARS(重症急性呼吸器症候群)やMERS(中東呼吸器症候群)などいくつもの例があるが、今回のコロナ危機のように短期間かつ世界的に感染者が増加した例はない。

 

特措法

一方、新型コロナウイルスの感染拡大を防ぐための改正新型インフルエンザ等対策特別措置法が

3月14日に施行された。

この特措法に基づき、安倍首相は4月7日、緊急事態宣言を出した。東京、神奈川、埼玉、千葉、大坂、兵庫、福岡の7都府県が対象であったが、16日に対象地域を全国に拡大した。期間は5月6日までの1カ月間。

これにより対象区域の各知事は住民の外出自粛や、学校、老人福祉施設の使用停止、イベントなどの開催制限、食品、衣料品などの売り渡し要請等、地域の実情に応じた対策を立て、役割分担するもの。また、感染拡大について、政府の専門家会議は3月19日、この状態が続けば爆発的に患者が急増する「オーバーシュート」に繋がる恐れがあるとの懸念を示した。

そして、クラスター(感染者集団)の発生リスクを下げるため、換気、人の密度を下げる、近距離での会話を避けるの3つの条件(密閉、密集、密接)を提言している。

また、東京五輪は来年7~8月に延期開催することが決まった。

 

未だ終息せず、いつ終息するか予測も立たない「新型コロナウイルス」騒動、都会では感染防止を訴えるばかりだが、農家の人々の見方・考え方とは?。

 

農業の強み・田舎暮らしの安心安全

コロナウイルス騒動が教えてくれた田舎暮らしの安全・安心とは「食」を生産・保有していることの盤石の強さである事に気づかず、これが強みだと自覚していなかった。少しでも都市に近づくことが発展の道だと考えていた。だから農村から人が減る事を憂え、農業後継者不足を嘆き、年ごとに増える荒廃農地に心痛めてきた。だが、その結果として今回のような感染症には極めて強い安全地帯となったのだ。いずれ在宅勤務などの生活システムの変化が定着してくれば、そう遠くない時期に帰郷する人達が出てくる。時代状況がそうなってきた。

 

都市は、その脆さが浮き彫りになった。ウイルス感染の要因として「三蜜」が指摘されている「密閉」「密集」「密接」だが、これこそ都市機能そのもので、満員の通勤電車、エレベーター、ラッシュ時の駅ホーム、タクシー待ちの行列などみただけで分かる。人との接触を80%減らすなどという事ができるだろうか?もしできたとしたら都市は生き残れるのか。

 

田舎・農村で見えた事

「不要不急の外出自粛」が要請された3月、出かける用件のすべてが中止となり、家を訪ねてくる人たちの予定は全部キャンセルされ、どこにもいかない、誰も来ない一カ月を初めて体験した。田や畑には人がいない。田舎では人に会いたくても人がいないのだ。数か月間どこにも行かず、誰も来ない暮らしをしたら、財布の中身はほとんど減らなかった。それで私達には何の不都合も不自由もない。これはカネ依存ではなくモノで暮らしている者の強さだ。これもコロナウイルスに教えられたことである。 

共生へといわれるが、人間が変わる 

農業を営んでる人は良くわかっているが、それは「人間は自然界に生かされて生きている生物の一種であって自然の支配者ではない」という事に尽きるだろう。地球上にすむ生物の総数が870万種類でその86%がまだ発見されず、したがって名前もない。人類が発見して分類しているのは全体の15%弱の120万種ほど、その地球上で最も反映した哺乳類が我々人類だが全生物量の0.01%だという。ウイルスは顕微鏡でしか見えない細菌の50分の1で、生命の最小単位である細胞を持たないので自己増殖が出来ない。そのため他の生物の細胞を利用して自分を複製させて拡大していく。その唯一の目的は子孫を残すことだと言われている。人類は20万年前にアフリカで誕生したが、ウイルスは4億年前に生まれている。コロナウイルスは60年前に分類されたがその共通の先祖は紀元前8000年頃に出現してコウモリなどを宿主として生き延びてきたと言われる。我々人類の大先輩である。そんなウイルスを撲滅しようとしても無理な話である。(左上写真:春先のリンゴの消毒風景)

  

農業では「リサージェンス」というが、殺虫剤をかけたことで別の虫が大発生することがよくあることだ。だからコロナウイルスとは、人間に対し無害な隣人として共存・共生を目指せないものか。人間の側からウイルスを無害にする環境を作っていくという事である。感染症が発生していないところをモデルにすれば良い。(有機栽培農業の経験からの助言)

【一極集中からの転換】

事実が証明しているように発症は大都市に集中している。地方は少なく農村にはほとんどない。人口の集中が病根だから、これを改善するのが本筋だが容易ではない。だから対症療法となるわけだが、現代の科学も、医学も疫学もほとんど役に立たないのだからすごい話である。発生の根本原因がそのままだから、また必ず同じことが起こるだろう。首都圏への人口集中は農村の過疎と背中合わせの現象である。この根本原因の解消に本気で取り組むべきではないか。

 

一極集中から多極分散の国づくりである。実はそう遠くない過去にその機運が盛り上がった時期があった。今から32年前の1988(昭和63)年に、国の「第4次総合開発計画」は「多極分散型国土形成促進法」という法律を作っている。東京に集中している国の行政機関を東京圏から分散させる大胆かつ斬新な未来図が示されていた。その発端となった大平正芳首相の「田園都市国家構想」に期待を寄せていたが、現職首相がなくなるという不幸があり計画は中止となったが、今後、復活する可能性もあるのかもしれない。

 

思い出してください「平穏な日常」を、我々の次の世代の世には過疎も過密も、格差もない、そして今回のような感染症にも強い社会になってほしいと思う。

以上

 

 

「流通革命史から見た百貨店業態の凋落」

2020-10-15 (2015年入学)廣瀬 秀德

 

前回は小売業態のコンビニエンスストア、特にセブンイレブンを中心に、抱える課題・問題点について記した。今年に入り、ファミリーマートは伊藤忠にTOB され、セブンイレブンは米国のコンビニを多額の金額で買収することになり、コロナ禍等で頭打ちになりつつあるコンビニ業界に大きな変化がみられる。さらに9月2日には公正取引委員会は、コンビニエンスストア本部が加盟店のオーナーに24時間営業を強制することは独占禁止法違反の恐れがあると明確にした。営業時間、出店、仕入れ、価格設定などの多岐にわたりコンビニ経営に独禁法で網をかけられた。売上が頭打ちになるなかでコンビニ各社は今後どのように対応して行くのか注目していきたい。一方でフランチャイズ方式により加盟店契約をした脱サラ組のオーナーの誰でも成功者になれると誤った認識をもって加盟し、零細小売業の厳しさも知らず、経営者気分になり、努力せず「こんなはずではなかった」と不満を漏らす加盟者も多々いることも事実である。本部だけが問題ありとは言いがたい。と感じている。

「流通革命史」を学ぶ者として、今回は、「小売の王様」と称された百貨店業界の凋落について記していくこととする。百貨店として代表される三越は、江戸期の1673年に三井家の家祖・三井高利によって三井呉服店(越後屋)が開業された。三井高利は「店先売り」「現銀掛け値なし」、店頭で値札をつけ、現金決済で販売し、反物を「切り売り」し、すぐに仕立てる「仕立て売り」を導入し、庶民が消費を楽しむ「消費革命」を先導した。三井は、銀行、物産、鉱山業が主力となり、三井創業の本業であった日本橋越後屋は幕末期以来業績不振を続け、明治期にも不振を続けた。三井家からの分離独立、三井呉服店のデパート化を推進し、「デパートメント宣言」を明治38年1月に宣言し、三井呉服店を近代的なデパート化に推し進めたのは日比翁助である。1886年に洋服部を開設し、1903年には店舗を和洋折衷に大改造し、陳列販売、子どもの遊戯施設や汁粉などを提供する食堂が併設された。松坂屋の前身の、いとう呉服店は名古屋栄町にルネッサンス調の木造3階建ての店舗を建設、ドアボーイや女性店員を採用した。明治40年代、各呉服店は経営者の欧米視察の見聞に基づいて、陳列販売の導入やショーウインドウの設置や、取扱商品を呉服だけでなく、化粧品や雑貨あるいは家具などへ拡大、「百貨店』という呼称も生まれた。大正中期は百貨店の拡大期であり、白木屋、高島屋、大丸、十合などが株式市場で資金調達し、個人経営から脱却し、近代的な組織経営が求められるようになった。1918年の富山で起きた米騒動に象徴される食糧危機を契機として食料品や日用品を百貨店が扱うようになり、富裕層だけでなく、庶民へと顧客層が拡大した。1923年に起きた関東大地震はさらに百貨店の大衆化を加速させた。百貨店化の潮流は地方にも伝播し、鹿児島で山形屋、岡山の天満屋、佐世保で田中丸デパート、地元民には縁のなかった欧米の生活様式を知り、洋風の商品とも出会う場になった。1927(昭和2)年10月、高島屋南海店の屋上に、子どもの楽しく安全な遊び場ができた。シーソーやブランコ、回転椅子などが設置された。高島屋は文化催事を、三越は子供博覧会を開催した。阪急は1929(昭和4)年ターミナル百貨店を開設、1930年に三越はお子様ランチという名物をつくりあげた。文化、レジャー施設が少ない時代にそれを百貨店が提供した。戦前における唯一の大型店であった百貨店は小売市場という水平的な関係において圧倒的に大規模な存在であっただけでなく、垂直的な取引関係においてもまた、絶大な力を持ち得たのである。百貨店と納入業者との間では、売れ残った商品を全部返品するという前提で仕入れが行われ、大量仕入れにより低価格での仕入れも可能であった。金融危機に陥った白木屋では委託仕入れや派遣店員も活用された。仕入れ担当者が商品研究・開発を怠るようになり禍根を残すことになる。また、唯一の大規模小売業としての百貨店の成長が中小小売商との間に軋轢を生み、百貨店問題を生起させ、後に百貨店法が成立した。1937年に日中戦争が始まり、百貨店は法律の存否にかかわらず次第に営業が制限され、戦時下では消費統制が行われ、一部には軍部への商事部門として活動した。戦争が終結した1945年、不要不急の商品を販売している百貨店の戦後復興は容易ではなかった。復興してきた百貨店は1946年には戦前の売上を超えた。毎年2桁増の売上高を記録するようになり、1950年になると主食を除く食料品の統制が撤廃されて、人びとの生活も改善され、1947年に独占禁止法が制定、百貨店法が廃止、1950年代に接収されていた百貨店の建物が解除され、売り場が整備され、店舗の増築や新規開店が増加した。昭和の30~40年代のデパート全盛期、百貨店というと休日に家族でちょっとしたおしゃれをして出掛ける楽しみな場所となった。子供たちにとっては、屋上遊園地があり、大食堂があり、お子様ランチやオムライス、ハヤシライスなどハイカラなメニューがあり、最大の楽しみであった。これが戦後の百貨店の原風景であった。戦前から戦後、そして高度成長期の頃まで「流通業の雄」と言われた百貨店は流通業界の手本であった。しかし、消費のリーダー役として日本の消費社会を長年牽引してきた百貨店がいつの間にかスーパーやコンビニエンスストアなど新興の流通業に主役の座を明け渡してしまった。百貨店の売上げを抜いた業態はダイエーを代表とするGMS(総合スーパー)であったが、90年代半ばには台頭してきたのが、家具、衣服、医薬品、家電など特定分野に特化した低価格で販売する専門店業態のカテゴリーキラーであり、コンビニエンスストアとともに90年代に流通業界の主役に出て、スーパーと百貨店は脇役に落ちてしまった。カテゴリーキラーが近隣に出店展開すると百貨店の該当カテゴリーが負けて撤退のやむなきにまで追いやられるためその名があり、米国では80年代から、日本では1990年代から台頭した。百貨店は長い歴史で培われたブランド力にかまけて、百貨店の経営革新は70年代から見るべきものがなくなってしまった。長い歴史と、独特の社風、地元社会に溶け込んだ親しみのある屋号、その老舗百貨店同士の再編が2007年に、大丸と松坂屋が経営統合し、そして阪急百貨店と阪神百貨店の経営統合、さらに2008年には三越と伊勢丹の経営統合、2003年には西武百貨店とそごうの経営統合と2006年にセブンアイグループの傘下入りをしている等、ダイナミックな企業再編が起きた。経営統合による生き残りを賭けたのである。しかしながら、百貨店は地方を中心に経営破綻や閉店ラッシュにあえいでいる。今年1月には山形市の創業320年の老舗百貨店、大沼が経営破綻し、8月には福島市の中合が閉店、そごう徳島店、西武大津店も8月末に閉店し、県庁所在地から次々と百貨店が姿を消していく。

首都圏でも昨年9月に伊勢丹相模原店、今年8月に高島屋港南台店が閉店し、来年2月に三越恵比寿店が閉店する。1991年には12兆円だった業界の販売額はバブル崩壊とともに、2019年には約6兆円程度と半減してしまった。1999年に311店舗あった国内の百貨店は20206月時点で203店舗に減り、閉店ラッシュは止まる気配がない。現在はコロナ禍により、国内需要減を補ってきたインバンド需要という下駄がはずれた途端に、業績に陰りが差し、もともと内需をつかむ力が衰えていたところにコロナ禍が直撃、業態としての弱さを露呈した。百貨店大手5社の直近の売上高、営業利益ともに大幅な減収、減益である。最後に百貨店業態が衰退した要因について再確認することにする。外的要因として、1つは百貨店に強力なライバルが現れたことである。1970年代には衣料品や家電も揃える総合スーパーが駅前立地など百貨店と同一商圏で中間層を取り込んだ。GMSを中心にショッピングモールが郊外に出現した。2つめには1980年代に入ると東京ディズニーランドをはじめレジャーが多様化し、屋上遊園地等の百貨店のエンタメ性が薄れた。3つめには、「駅前一当地」という百貨店の強みをそいだモータリゼーションの波である。駐車場が用意された郊外ショッピングセンターに顧客を奪われた。4つめは百貨店の収益を支えてきた分厚い中間層の消費後退である。バブル崩壊とともに世帯平均所得は長期低迷を続け、94年をピークに2018年には約17%下落している。商品の質や機能性と価格の釣り合いを重視し、コストパフォーマンス重視の消費となった。5つめとしてユニクロ、ニトリのように時代の空気に寄り添い厳しい原価管理でコスパを追及したSPAはカテゴリーキラーとして小売業に確たる足場を築いた。消費者は「百貨店で定価で買うのは馬鹿馬鹿しい」と感じ店頭価格への信頼も失った。6つめは「デジタル時代」の到来である。EC取引への対応の遅れと、顧客が商品情報を瞬時にわかるようになった。そして百貨店自身による内的要因としてはバブル期からバブル崩壊後にも出店を競い、同一商圏内での競争が激化し、高コスト体質があだとなり、収支が悪化した。これを打開するため、拡大したのが「消化仕入れ」であり店頭在庫の所有権を仕入れ先が持ち、商品が売れた際に百貨店に売上がたつ。アパレルでは販売員も仕入れ先に出してもらう。在庫管理や販促も仕入れ先に委ねられるため「百貨店の負担は軽減するが、同時に店ごとの個性が失われ、『同質化』を招く結果となった」こうしたさまざまな逆風と失策による長年の低迷が、百貨店という組織を徐々に蝕んでいった。変革の遅れのつけが2000年代に噴出、業績低迷で立ちゆかなくなった百貨店大手は経営効率を引き上げるため呉越同舟の大型再編を繰り返したが、その内実は撤退戦を繰り返す縮小均衡にすぎなかった。優位な統合相手を探すことに終始し、肝心な事業モデルの転換が後回しになり、すべての基盤である顧客を見失ってしまった。外的要因、内的要因が重なり、時代の変化に対応して自らが変わり、新しい需要をつかむという小売業の鉄則を実践できなかったことが凋落の真因である。 

                                                 以上

 

「日章丸」の第二の人生とスケソウダラ

              (タンカーがミール工船に)

2020-10-01 (2015年入学) 鈴木佳光

 

春学期の経営学研究科の「企業家活動特論」のテキスト『イノベーションの歴史』のなかに、出光興産の創業者出光佐三の「日章丸*の奇跡」の項目があった。それは、『日本中の主要都市が灰燼に帰した敗戦からわずか8年後の1953(S28)年、出光興産はイギリス系石油会社(アングロ・イラニアン)の国有化問題でイギリスと係争中であったイランに、自社船の日章丸(二世)を差し向け、大量の石油を買い付けて国際的な注目を浴びた* 。

この「日章丸事件」は佐三を戦後の日本で最も人気のある経営者の一人に押し上げるとともに、1950年代半ばから始まる高度成長の呼び水の一つともなった。』という内容で、出光興産は「民族系石油会社の雄」へ大きな変身をとげたと続く。佐三の人生は、百田尚樹著『海賊とよばれた男』の歴史経済小説にそのモデルとして描かれ、2016年には映画化され、全国公開された。(出典:日章丸 なつかしい日本の汽船 HP)

 

私は食糧部門に所属していた時、この「日章丸」の第二の人生である加工母船「鵬洋丸」と、1978年〜90年で13回、ミンタイ事業*に関わったので、紹介します。 

 

◇「タンカー」が「ミール工船(母船)」に

「日章丸」は1960(S35)年に北洋水産*に売却され、ミール工船(母船)* に改造され、廉進丸(れんしんまる)、鵬洋丸(ほうようまる)と改名された。当時、西カムチャッカ海域では冬期にスケソウダラがニシンの卵(数の子)を食い荒らし、地元漁民が困っており、ソ連側からスケソウダラを駆除して欲しいと商社に依頼があったことが、この事業の始まりと先輩から教えられた。

 

その後、西カムチャッカ洋上において、ダリルイバ(極東漁業公団)の漁船が漁獲したスケソウダラを鵬洋丸が船側渡しで買取り、船内で加工するというオペレーションがスタートした。北洋水産には、夏期のベーリング海の操業の裏作にあたり、冬期の洋上買い付けは明太子(タラコ)がとれるため、大いにメリットがあった。この日ソ貿易は、25年以上続いたが、1990年初頭のソ連崩壊とともに消滅した。

 

◇厳寒の地ナホトカ出張

輸出者のダリイントルグ(外国貿易公団)はナホトカ市にあり、毎年12月下旬〜1月に商談のために、丸紅、伊藤忠、北洋水産2名と商社のロシア語通訳の5名の交渉団が約1カ月ナホトカに出張した。私は何度か交渉に参加したが、ナホトカ号、ハバロフスク号など横浜港大桟橋——ナホトカ定期旅客航路を利用する場合と、週1便ある新潟——ハバロフスク空路、さらにシベリア鉄道を利用し、ナホトカに行く方法があった。1ヶ月分の食料品と日常必需品を持参するため、大掛かりな出張であった。

 

ナホトカ・ホテルに宿泊し、商談は毎日2〜3時間行われた。前年度の実績をレビューした上で、価格交渉に入るが、高く売りたいソ連側と安く買いたい日本側では、交渉はなかなか進展しない。最終的には双方のトップ会談となるが、それは常に帰国当日のギリギリで決着した。毎日商談後、その内容を近くの電報電話局に行って、東京に打電するが、外気温度が日中で零下10℃と非常に寒いので、仕事以外ほとんどホテルで過ごした。

 

持参した食料品の自炊が基本であり、学生時代の合宿のようでもあった。その他は読書、麻雀、将棋、トランプなどで暇をつぶすことが多かった。週末には時々、ダリイントルグから「魚釣り」や「保養所」に誘われた。魚釣りは、凍った川までマイクロバスで行き、氷に穴を開け、釣竿をたらし、定番の豚の脂身の塩漬け、ニシンの塩漬け、ピクルスをつまみにウオッカを飲むことになる。「保養所」での楽しみはサウナで快適に過ごすことであった。この他、思い出すのは、①横浜港大桟橋の客船で、大勢の人々から見送られ乗船した気品のある女性が岡田嘉子という、かつてソ連に亡命したことのある大女優を紹介された。彼女はナホトカ経由シベリア鉄道でモスクワに行くと話していた。②ナホトカ・ホテルは古い建物であった。部屋の風呂はシャワーのみで、いきなり冷水から熱水に変わることがあり、用心しないと火傷をしそうであった。また、レストランではメニューに品数は多くあるのだが、注文すると「ニエット」*と返事が来ることが多く、食料不足でした。ただ、硬い黒パンや黒ビールはあった。沢山の食料品を日本から持ち込むには、それなりの理由があったということです。③市内を走っている自動車、バス、トラックは中古の日本製が多く、タイヤはツルツルで、よくスリップしないものだと感心しました。そして、港、橋、街を背景に写真を撮ることは厳禁でした。トラブルに巻き込まれないためで、東西冷戦時代には当たり前のことでした。

 

◇商談終了後

調印後、シベリア鉄道でハバロフスクに行き、空路新潟経由で戻る。ハバロフスク--新潟の便のない場合は、空路、ハバロフスク→モスクワ→成田で帰国した。通産省・水産庁に輸入書類の手続きをするためには、商社は早々に申請書を作成、一方、北洋水産は函館で鵬洋丸の出航準備をすすめた。

 

◇契約

①商品:ミンタイ②数量:6万5千㌧③価格:米ドル建て、鵬洋丸船側渡し④受渡期間:1月下旬〜4月中旬⑤決済:Irrevocable L/C(取消不能信用状)で、輸入商社は各社がシェアーに応じてL/Cを開設し、輸出者のダリイントルグは船積み書類を作成、決済した。鵬洋丸では多くの作業員が、引き渡されたスケソウダラでタラコ、すり身、肝油、ホワイト・フィシュミール(白色魚粉)等を生産した。生産品は仲積船で日本の主要港で荷揚げ、通関、保管、販売された。冬期の西カムチャッカ海域はしばしば時化*があり、漁獲、受渡が困難を極めることがあった。

 

◇輸入割当と見返り輸出

本取引は輸入割当(IMPORT QUOTA=IQ)に該当する。スケソウダラを洋上で買い付け、母船で加工して、日本に生産品で輸入する。商社が輸入枠を持っているが、北洋水産の鵬洋丸が加工する共同事業であることは、関係省庁は良く理解していた。さらに、商社の役割は、輸入額に対する「見返り輸出」*を実行することであった。ダリイントルグはダリルイバが必要な消費財や生産財を商社から輸入していた。

 

北洋水産はタラコやすり身は自社で販売したが、フィシュミールに関しては、商社経由で飼料会社に販売した。養殖飼料用が主たるもので、国内だけでなく、輸出も行われた。当時、台湾の主要な養殖産業であった養鰻用飼料原料で、台湾の業者は、対日向け「活鰻」*輸出や「鰻蒲焼き」*など取引をさらに拡大させた。

◇おわりに

このミンタイ事業に関する資料がないか探したら、『ロシア極東経済総覧』ロシア科学アカデミー極東支部経済研究所編(日本語版監修 望月喜市/永山貞則)、東洋経済新報社、1994年発行が見つかり、第2部の経済発展の項目(P.170)に『このほか、契約ベースで6万5千㌧のミンタイの洋上買い付けが実現している』と記載があった。戦後、日本国民を大いに沸かせた出光のタンカー「日章丸」が第二の人生では、加工母船に改造され、「辛子明太子」、「かまぼこ」、「おでんだね」、「鰻の蒲焼き」など我々の身近な食品に深く関わっていたことは、ほとんど知られていない。

                                              以上

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*日章丸二世は1951年に播磨造船所で建造された、出光興産の18,000重量トン級の油槽船(タンカー)である。

*「これは世界的な石油資源国であるイランと消費地日本とを直結せんとして敢行された壮挙であって、その結果は年間数百億円にものぼる国内製品の値下がりを
  もたらし、消費者に多大の利益を与えた。イギリスのアングロ・イラニアン会社は日章丸積取り石油の仮処分を提訴したが、東京地裁、同高裁で却下され、出光勝訴
  のうちに落ち着いた。イギリスの強圧に屈しなかった出光のこの毅然たる態度は敗戦によって自信を失っていた一般国民に自信と勇気を与えた。」と1964年刊行の

 「出光略史」に記載されている。

* ミンタイは明太魚、スケソウダラ、スケトウダラのこと。ミンタイ事業とはスケソウダラの洋上買い付け、加工、見返り輸出を行う一連のソ連との国際取引を指す。

*1926(T15)年1月、北洋水産(株)設立、1983(S58)年、報国水産(株)と合併し、翌年(株)ホウスイに商号変更。2008(H20)年、
  中央冷凍(株)を吸収合併。東証1部上場。

* Fish Meal(フィッシュミール=魚粉)を生産する加工母船。

*ロシア語の‘いいえ’で‘ありません’の意味。‘はい’は‘ダー’である。

* 悪天候のため海が荒れること。

*商品・サービスの国際取引で輸入を先行させ、その見返りとして同額の輸出を行うこと。

*かつまん、生きているうなぎ。

* 蒲焼き(かばやき)の由来は、うなぎのぶつ切りを串に刺して焼く様子が蒲(がま)の穂に似ているところから『がま焼き』⇨『かば焼き』に転じたというのが定説。

 

 

国勢調査を紐解くと

2020-09-15(2019年入学)河合芳樹

 

東京への人口集中が問題となったのは今に始まることではなく、江戸開府の頃を別とすれば、大正年間から始まり、大正から昭和にかけて農村の衰退が問題になった。その経済的な影響は産業構造の変化に伴って、それまでの資産価値は農地中心から宅地中心に変化し、昭和初期には銀行等の担保も農地から宅地に移っていった。この様に人口移動は土地利用の変化だけでなく、長期的には経済の仕組みを変える。

 

今年は5年に一度の国勢調査の年に当たる。国勢調査は悉皆調査で、日本に暮らす日本人は勿論、外国人も調査対象になる。統計の整備状況は、その国の経済状況や世相の安定に裏付けされる。そうした中で、国勢調査は国の根幹を為す統計である。しかし、2010年の調査から、個人情報を盾に調査拒否もあると聞く。個人情報保護法の行き過ぎた解釈に基づくものと考えるが、ここではその議論は据え置く。以下では、群馬県の地域創成について調べていた折りに、1950年以降の国勢調査を使って、人口の推移を集計し、比較検討した結果を紹介する。それは、1、2年後に公表される2020年の国勢調査の結果と検証することにも繋がる。人口動態は、身近な情報で感覚的に頭に刷り込まれていて、今日の東京への人口集中における人口構成の変化と地方との関係についてごく当たり前に受け止めているが、それを数字で検証することは、人口に限らず、様々な分野で次にどの様に変化し、対処するかを考えるヒントを得ることができる。

 

■コーホート法による人口集計

コーホート法は、同じ年、あるいは、同じ時期に生まれた集団の推移やその行動様式を分析する方法で、社会保障・人口問題研究所の人口推計や日本創成会議が2014年に公表された通称『増田レポート』でも用いている。また、マーケティング調査でも、物販販売だけではなくテレビ番組や音楽など、世代ごとの流行の移り変わりや再流行の間隔を分析する際にも用いられる。 

図1は、1950年から2015年の5年毎の国勢調査において、東京都特別区の人口のうち1946年から1990年に生まれた人を5歳ごとに集団にしてその推移を表している。例えば、団塊の世代を含む1946年から1950年生の集団は、1950年の国勢調査では特別区在住者は661千人 で、20歳から24歳になった1970年には1371千人に膨張したが、1975年には1013人に減少したことを示している。大学に入学のために上京し、卒業して東京以外で就職する、あるいは、就職して東京以外の勤務地に転勤するなどで特別区から移転したことを示す。その後の減少は、住宅を都下から埼玉、千葉、神奈川の3県など郊外に求める動きが加わる。こうした動きは1970年生の世代までは明確で、1971から1975年生の世代が分岐点で、1976年生以降(赤線表示)は25歳以降においても特別区在住の人口が増えていく。これは、1976年生以降の世代が大学を卒業した時期が、バブル崩壊後の「失われた10年、20年」で、地方での就業機会が少なくなるとともに地方の大学卒業生も特別区内の企業に就職する割合が増え、さらに、都心の地価の値下がりと高層化によって、住居の都心回帰の流れに重なったことによる。 

 

また、5~9歳の人口が、1946年から1950年生の集団以外は0~4歳の時期よりも減少している。これは、例えば、1951~1955年生の0~4歳時期は1960年の頃、当時の日本住宅公団(現・UR都市機構)や都営県営住宅が校外に建設され、「団地っ子」なる言葉も生まれた時期に、東京近郊に移転したことを示唆する(正確を期すためには1都3県の移動を調査する必要がある)。特別区の人口について言えることは、14歳までとそれ以降での人口動態が大きく異なることは各世代にほぼ共通しているが、バブル崩壊後は世代によって人口移動のパターンが変わったことを図1が示している。

 

図2は、図1をより視覚的にするため、各世代の20~24歳人口を100として人口指数で表し、比較対照するため秋田県と群馬県についても同じ様に人口指数をグラフにした。特別区と秋田県、群馬県を比べると人口の山が逆向きであり、秋田県は群馬県に比べて15歳以降の減少率が大きく、また、25歳以降の増加率は鈍い。さらに、秋田県は1976年以降の生年世代から人口の復元力が弱くなり、1981年以降の生年世代からは明らかに減少している。これに対して群馬県は、東京から100キロ圏という地の利もあり、25歳以降の人口は減少には転じていないが、その推移は、秋田県に5~10年の差で投影しているとも言える。その点からも、今年の国勢調査の結果でどの様な結果になるかが注目される。

図3は、図2を群馬県前橋市と高崎市に用いて比較した 。両市は、今までの国勢調査では人口も拮抗し、前高と高高としても名を馳せて以前から競い合いながら今日に至ってる。しかし、高崎市に新幹線の駅が設けられたことによって、次第に高崎市の勢いが増している。大学は、前橋市に3つの国公立大学、高崎市に1つの公立大学があり、そのほか私立大学も多い。これらの学生の多くの受け皿になる企業等の多少、さらには、上場企業が高崎市に多いこともあり、両市の25歳以降の人口動態が1986年以降の生年世代で変化が生じていることが図3で示される。これは、前橋市市民も感覚的に理解しているものの、数字として明確に現れていることは話をするまで気付いていない人が多かった。前橋市と高崎市も今年の国勢調査結果どの様に推移しているかは、燻っている合併の話にも影響する。さらに、コロナ禍で「新しい日常」が言われるなか、東京から100キロ圏の群馬県などに変化が生じるかどうかも興味深い。

■むずび

私が修士論文で対象にする分野は地方財政で、人口動態を直接対象にしていないが、人口の集中と過疎は所得再分配機能が働くうちは格差も治められているが、過度な集中は再分配機能に対して不平等感を生むことがある。水平的な人口分布の歪は、世代間などの垂直的な歪を浮き上がらせる。大学院のある授業で、若い院生から「少子高齢化は予測できなかったかのか。当時は何の対策も行わなかったのか。」といった質問があった。確かに、国の人口は、移民を受け入れない限り生年後世代が増えることはない。当時、真剣には考えていなかったし、考える切掛けもなかった。ただ、これは、地方財政に起因する債務が直接的間接的に含まれている国の債務についても同様である。債務返済はまだ生まれていない世代に及ぶことは必至であり、その世代は「なぜ」、「昔の人は無責任ではないか」と思うことになるだろう。           以上

 

 

革新的企業家とは(孫正義)

                               2020.09.01 

2016年度入学 : 新貝 寿行

        

 

経営学研究科の春学期の授業で、日本の革新的企業家たちをまとめたテキストを熟読する機会があった。⦅橘川武郎(2019)「イノベーションの歴史:日本の革新的企業家群像」有斐閣⦆この本では1990年代以降の革新的企業家として孫正義を取り上げており、読み進めるうちに昔の記憶が蘇ってきた。四半世紀前の1994年秋、当時勤務していた日長銀(日本長期信用銀行)での7年間のニューヨーク駐在を終えて東京に戻った私は、M&A部に所属することになった。日本の企業に米国企業を紹介し、買収や提携の可能性を提案するのがミッションだった。

(ソフトバンク/孫正義とコムデックス)

帰国して間もなく、ニューヨーク時代に取引のあった会社、インターフェイス・グループ(Interface Group Inc)が彼らの事業を売却する意向があるとの情報が入った。同社はユダヤ系移民の家に生まれたシェルドン・アデルソン(Sheldon Adelson)が率いる会社で、ラスベガスにある名門ホテルのサンズを買収、その近接する場所に巨大な展示場施設を建設し、ここでコンピュータ関連の展示会コムデックス(Comdex)事業を行っていた。コムデックスは世界最大のITトレードショーで、米国の先進産業の最も象徴的な場になっていた。日長銀がサンズホテルの買収資金をインターフェイス・グループに融資したことから、私もニューヨーク時代、コムデックスを視察し、アデルソンと一緒にランチをしたことがあった。

早速、インターフェイス・グループ本社の幹部に電話をして確認すると、「条件が合うなら売却を考えても良い」という返答だった。「日本の会社でコムデックスに興味を持つのはソフトバンクしかない」と判断し、同社にコンタクトした。ソフトバンクは1994年の7月に株式を店頭公開したばかりで、積極的にM&Aを展開しようとしていた。日長銀はソフトバンクとは取引がなかったが、意外にも簡単にアポが取れた。意気込んで同社を訪れると孫正義本人が出てきた。

 

今でもよく覚えているが、彼は饒舌だった。「10年ほど前に重い慢性肝炎にかかり3年間入退院を繰り返して、一度は事業化の夢をあきらめた。」「奇跡的に回復し、ソフトバンクを店頭公開した時、ビル・ゲイツから祝いの手紙が届いた。」「買収案件は自分が決める。」などなど。その上で「コムデックスはよく知っている。興味もある。」と明言した。

 

実際にM&Aを行う場合、いわゆるデュー・ディリジェンス(Due diligence)を精緻に実施する必要がある。具体的には、買収価格の決定・相手企業が持つリスク調査(訴訟リスクなど)・関連するあらゆる法律(本社だけでなく工場など拠点がある国や州などの法規制)等のほか、買収資金のアレンジも必要になる。これらを企業が単独で行うのは無理なので、投資銀行が企業と契約を結んで代行する。アメリカではゴールドマン・サックスやモルガン・スタンレーなどの大手投資銀行のほか、小規模な専門の会社も多数ある。日長銀はそのうちの1社(ニューヨークのPeers Inc)を子会社にしていたので、私たちの作戦はこの子会社をソフトバンクと契約させ、必要な資金調達は日長銀がアレンジをおこなうというものだった。

 

(日本興業銀行/三木谷浩史)

当然、我々と同様に他の証券会社や銀行もこの案件獲得を狙っており、その後ソフトバンク本社に打ち合わせに出向くと、ライバル他社のチームと出会うことが度々あった。その中でも特に、興銀(日本興業銀行)は最大のライバルだった。日長銀はソフトバンクとの取引がない、というハンディキャップがあったので、興銀などに打ち勝つためにはスピードで勝負することが肝要だった。そこで孫正義との会談後、正式契約に持ち込むべくPeers と連携しながら、提案書と銀行内部の稟議書作成作業を連日深夜まで続けた。

しかしながらコムデックスの買収価格は、当初に見積もった4.0~4.5億ドルを大きく超えて6億ドル程度となり、日長銀の審査部が「融資はリスクが高い」としてこの案件に難色を示した。このため、審査部を説得するのに時間を取られ、漸く「OK」の回答を貰った時には、既に興銀がソフトバンクから契約の内諾を取っていた。

 

「興銀グループを選んだのは、以前からソフトバンクとの取引があっただけでなく、M&A部門の担当者が孫正義に気に入られたことも理由の一つ」と、ソフトバンクの担当部長から聞かされた。その時は興銀の担当者の名前までは聞かなかったが、翌95年11月にその担当者が興銀を辞め、自分でコンサルティング会社を設立した時に、三木谷浩史と知った。彼がコンサルティングで得た6000万円をもとに、楽天の前身となるエム・ディー・エムを創業したのは更にその1年半後の97年2月である。そして今や楽天は、売上高1兆2,600億円、社員数2万人を超える日本を代表する企業となった。

 

(孫正義とアデルソン)

ソフトバンクは95年4月にインターフェイス・グループからコムデックス事業を正式に買収した。買収直後に開催されたコムデックスでは、孫社長が主催者として前夜祭の壇上に立ち、ビル・ゲイツを紹介、これを足掛かりに孫正義は世界のIT業界のトップとの交流を広げることになった。そして、この交流が現在のソフトバンクグループの安定的な収益源であり、信用の裏付けとなっているヤフーやアリババへの投資に結び付くことになる。

 

アデルソンはコムデックス事業の売却資金でサンズホテルを取り壊し、跡地に近代的な巨大ホテル「ザ・ベネチアン」を建設して、本格的にホテル・カジノ事業に乗り出した。その後、マカオでマカオ・サンズ、シンガポールでマリーナ・ベイ・サンズなど大規模なカジノ・リゾートを次々に建設、今や彼の個人資産は3兆4000億円(320億ドル)と言われている。また、安倍政権が進めている統合型リゾート事業(IR)にも進出する意向を示し、日本でも話題となった。(その後、コロナの問題もあって今年の5月に「進出断念」を表明している。)

 

(日本:イノベーションの停滞と新たなチャンス)

冒頭に紹介したテキストでは、その最後で「日本企業が得意としてきた後発優位のインクリメンタルイノベーションは、1990年代以降、情報通信技術革命に伴う先発優位のブレークスルーイノベーションの時代に効力を失うことになった。」とまとめている。確かにソニーはインターネットというプラットフォームの重要性に気付くのが遅れてアップルに大きく引き離され、また、日本企業が優位性を保ってきた自動車でも、最近では電気自動車の革新企業テスラが躍進し、今ではテスラの株価時価総額がトヨタとホンダの合計を上回っている。また、未上場のスタートアップ企業で企業価値が1兆円を上回る、いわゆるユニコーンのトップ20社一覧にも日本企業の名前はない。

 

1994年から1995年にかけて、私はアデルソン、孫正義そして三木谷浩史とつかの間の関りを持ったが、孫正義の情熱、アデルソンの野望、三木谷浩史の決断に圧倒されるばかりだった。(私の想像ではあるが)孫正義に影響されて、三木谷浩史が安定した大企業を辞めて独立・企業し、アデルソンもソフトバンクへのコムデックス事業売却を機に世界的なホテル・カジノ事業へ踏み出した。孫正義のような革新的企業家の最も重要な役割は、次の革新的企業家を生み出すことにあると言えよう。ただ、その後の四半世紀の間、残念ながら日本では彼らのような革新的企業家の誕生は続かなかったようだ。起業についての日本の動きは世界に大きく後れを取ってきた。

 

その遅れを取り戻すチャンスが今、生まれているのではないか。新型コロナウィルスの感染拡大で行動様式が変わり、日本は一気にデジタル化やオンライン化を進めざるを得なくなった。イノベーションを妨げてきた従来の規制や慣習を打ち壊し、イノベーションの遅れを挽回できる機会が生まれている。コロナの厄災をチャンスに換え、孫正義や三木谷浩史に続く革新的企業家が日本に生まれることを若い世代に期待したい。

 

 

「コロナ (COVID-19)環境下の生活、大学院そして仕事」雑感

2020年8月15日 

                                   2017年度入学  山口岳男 

I コロナ感染の現状

今日、令和2年8月5日現在、世界のコロナ感染者数は1800万人を超え、死者も69万人を上回っています。日本はどうかと言うと感染者は4万人を超え、死者は1000人を突破しているのが現状。毎日変わる数字を追いかけるのも一苦労。また、コロナの影響で減収を見込む企業が約7割に達するとの報道もあります。この感染、世界も日本も未だに衰える兆しも見えません。

 

II 日常生活も変わりました、でも良いこともある

コロナウイルスの影響が徐々に現れ始めたのが2月の半ばだったと思います。コロナを気にしながらも結婚40年記念の伊豆修善寺からの旅行を終えて家に戻ったのが2月末。振り返ればこの時以来、遠出を控え自宅マンション(国分寺市)に籠る生活となりました。異変に気づいたのは3月初めの土曜日の朝、3階の自室窓から外を見たら夫婦二人、両手一杯にトイレットペーパーを抱えがなら通りすぎるではありませんか。何にやってんのか、と思ったその時に友達から写真入りメールがLineに着信。彼の近所のスーパーの棚が空になっている、そんな写真でした。

 

この頃から毎週月曜日、欠かさずにいたGFーMastersのメンバーとの「パンセ」での昼食を共にしながらの会合も叶わなくなりました。予定していた会社の同期会は延期、そして時期未定。そして久々の高校同窓会は延期から中止となってしまいました。長年通っていた近くのテニススクールも休館となりました(もっともスクールは6月初めからマスク着用でスタートしましたが)。夫婦で申し込んでいた5月のイタリアの旅行もイタリア本土の酷い感染が怖くなり、3月早々キャンセルしました。海外旅行は当分は無理でしょうね。

 

息子が二人いますが、年末から正月にかけて息子の二家族と越後湯沢に行って以降はほとんど会えない状態がつづいています。四人の孫の成長もなかなか追えずに残念なことです。

 

そんなこんなで3月以来中央線に乗ったのは三回のみ、車も買い物以外は使わずガソリンスタンドにも行っていない。こんな中で欠かさずにいるのがウオーキング。7キロ弱を早足で一時間歩く。近くに玉川上水(かつて江戸市中へ飲料水を供給していた上水( 上水道として利用される溝渠)であり、江戸の六上水の一つである。多摩の羽村から四谷までの全長43kmが1653年に築かれた - Wikipediaより)があり遊歩道になっていてなかなか歩きやすいのです。春は桜、少し前は紫陽花が見られ、今は蝉の声が聞かれ、また木陰で涼しいのです。ただ歩くだけでは飽きるのではとお思いでしょうが飽きない。それは緑を楽しみオーディオブックを聴きながらのウオーキングだからです。いろいろなオーディオブックを読破ならず「聴破」しました。The Innovators, The Inner Game of Tennis, Talking to Strangers, The Four, Homo Deus, Embracing Defeat. Upheavalなどなど。長いもので21時間。でも一ヶ月で聞き終わります。コロナで家に篭らなければここまで熱心に歩いたり聴いたりしなかったでしょうね。体重も減ったし、これは私にとっての大きな収穫です。

 

III 大学院クラスも仕事も変わりました

大学院のクラスがスタート時からオンラインになりました。

まずはクラスを受ける立場からお話しします。今年度は経営研究科の鷲見(すみ)先生の ‘Transnational Management’ という科目だけとっています。国際経営学の教科書を用いて国際経済の基礎理論から貿易、金融、国際ビジネスの戦略に至るまで学ぶ。ある分野を深掘りするというよりは幅広くグローバルビジネスに関わる分野をカバーするというものです。鷲見(すみ)先生は長く米国の大学で教鞭を取られたこともあり、授業が英語で行われるなかでいろいろな国籍の学生が学んでおりダイバーシティに富むクラス。

 

これまでの対面式の大学院クラスと比較して、私自身は思ったほど違和感を感じていません。ただ、レジュメを作って発表する際に説明を受けている相手の顔が見えないので反応が全く分からないという不安はある。これは鷲見先生ご自身、教える立場としても同様だとのこと。明治大学ではオンラインクラスで個人の顔を見せることを強制しないようにと先生にお達しが出ているとのことでスクリーンを見ると結構皆さんシャットアウトしている。残念なのは院生間の議論のないこと。もともとクラスでは院生間の議論は少ないというのがこれまでの3年間の印象なのでオンラインだからさらに少なくなったとは言えないかもしれません。それでもオンラインでなんとかまあやれるのかな、という感じです。ただ、クラスではsmall talkというか雑談がほとんどないことは予想以上にマイナスとして受け止めざるを得ません。学生と親しくなるといった関係はまず作れそうにありません。ほぼ時間通りにクラスにやって来て終わればすぐに退出するといった具合ですから院生間での繋がりはなきに等しいような感じを受けます。皆さんのクラスでは如何でしょうか? 

 

さて今度はクラスを進める立場からお話しします。時折、依頼されてビジネス関係のセミナーでいくつか講師をしています。人事関係では次世代人事を考えることを目的にProFuture株式会社が主催しているHR エグゼクティブコンソーシアムの人材開発分科会の座長として年三回の分科会を開催しています。従来は対面式でしたが今年からはZoomを使ったオンラインとなりました。4月と7月の分科会には20数名が参加しました。一回につき3時間の講座で出席者は様々な会社の人事責任者が大半。プレゼンとグループ討議を組み合わせて進めるのですが今回オンラインでやってみて対面式のクラスとそれほど遜色にない内容で実施できたのではないかとの感触を得ました。それは参加者が極めて熱心であり興味を持って参加するという要因が大きくモノをいって議論や質問がオンラインであっても活発におこなうことからきていると思うのです。グループ分けをしてグループごとに議論をさせ、私も各グループに自由に出入りできてグループの討議に参加でき、コメントできるのです。そして最後は全体で討議する。これが可能なのです。5月には同じ様にして早稲田大学のビジネススクールで50数名の参加する1コマ、90分の授業を受け持ったのですが同じ様にプレゼンとグループ討議の組み合わせで行いました。結果はやはり対面式並みにできたのではないと感じます。このクラスでは別途オンラインのクラス懇親会も行い、受講生同士の繋がりもできていた様に思います。院生ではなく社会人がほとんどなのでこの点、社会人の方が多少matureなのかもしれません。ただ、クラスを進める立場からは受講生人一人の顔が見えないことから理解の程度に応じて話す内容を修正することが出来ず、不確かなままでも進めざるを得ないこと、また受講生からの「熱量」を感じ取ることが難しいなどの課題があることも事実です。これは大学院のクラスでも同じでしょう。9月以降同様なオンライン講座がいくつか待ち受けているのでどう効果的に進めていくか模索しています。  

次は仕事です。3月以来仕事は全てオンラインで自宅からの業務となりました。私の場合、今やフルタイムで仕事をしているわけではなくアドバイザーという立場ですからほどほどの仕事なのですがそれでも打ち合わせはあります。これまでは電車で東京の大手町や有楽町にあるオフィスまで出向いていたのですがそれがオンラインとなり時間的に体力的には随分楽になりました。ただ、オフィスで耳から入ってくる情報は皆無となり、その分余程会社のウェブサイトやネットで情報をとることを心掛けないとキャッチアップできないという不安を感じることも事実です。ここでもsmall talkや一件無駄話と思えるちょっとした会話の重要性に気づかされもしています。

 

Ⅳ ポストコロナで残るもの

このままコロナウイルス感染が収束しないと、全人類がリモートライフ、リモートラーニング、リモートワークという前代未聞の状況になるのですが、ワクチンやウイルスに効果のある薬や治療方法が確立された時に仕事や教育を含めた我々の生活はどうなるのでしょうか。ニューノーマルと言われる生活の中でどれだけ元に戻り、どれだけ元には戻らないのでしょうか。大きな問題すぎてとても私の手におえることではないのですが身近なところから少し考えてみたいと思います。

 

(1)生活

コロナの感染対応で政府、具体的には首相、大臣、そして各省庁の官僚や都道府県の責任者である知事のメデイアへの露出度が高まりました。こんなにテレビを見るなんてこれまでなかった!!しかしそれによって垣間見る彼らのリーダーシップ、これには大いなる危惧の念を持ちました。とりわけ政府と国会審議。スピード感はない、誤りを認めない、責任感を取ろうとしない、チグハグな政策決定等々。こうした政治家や官僚は生き残れないポストコロナになってほしいものです。

また、些末なことかもしれませんが「うがい」「手洗い」はこれまで同様、いやこれまで以上に生活に根づきますし、コロナが収束したとしてもマスクを着用することを含めたそれらを含めた日本固有の「マスク文化」として残るかも知れませんね。

 

(2)大学院・仕事

ポストコロナでは「リモートワークやラーニングが主流になる」のは間違いありません。それはとりわけ働き方の中で顕著になります。これはコロナ環境下でリモートでも「なんとかやれる」と多くの人が思ったことが大きいのです。しかもそれをサポートするZoomやTeamsなど沢山のデジタルテクノロジーもあります。この数年、政府を始め、日本の企業は競って「働き方改革」の掛け声を上げてきました。多様な働き方をサポートすべく在宅勤務やリモートワークを進めようとしたわけですが実情は一向に進まない。ある会社にいたっては管理職は一律週に1日は在宅勤務をせよ、などと滑稽極まりない施策を打ち出していました。ところが皮肉なことにこのコロナウイルスは一夜にして日本企業にリモートワークを強制してしまったわけです。

 

但書付きですが私はリモートワークがデフォルトの働き方になりオフィスワークはリモートを補完するという様にこれまでの関係とは逆転することになると考えています。このトレンドは元には戻らないと思います。働き方はもちろん、生き方、暮らし方、人と人との付き合い方など社会全体に大きなパラダイムシフトを起こすと思います。例えばインターネットの出現以来、コミュニケーションのあり方は劇的に変化しました。対面コミュニケーションからスクリーン上に映し出される点とのコミュニケーションになりました。ただ、人間は基本的には社会的動物であり人と人とのつながりや人同士のコミュニティーを求めるものです。繋がりを求めて関係を構築していくためにはやはりeye to eye contactは必要であり今のオンライン上では単にスクリーン上の小さな点(dot)を見るだけで、これで本当に人間関係を作れるのか、という疑問もあります。洋の東西を問わず信頼できる仲間になるためには「同じ釜の飯(a coomunal meal off the same plate)」は絶対に必要なのです。人間関係がドライなアメリカですらWeWorkという会社が共同のオフィススペースを立ち上げて貸し出したのもスターバックスやワークフロムホームよりも快適な「第三の場所」を繋がりを求める多くの人へ提供するためでした。それだけ多くのニーズがあった。リモートワークであるからこそ、対面文化の良さに気付き、人に会うことの価値が高まる、そのリアルとデジタル両面をいかに上手にマネージして初めてリモートという壮大な実験は成功すると思うのです。それが但し書きの内容です。

 

もう一つ大事な点はリモートワークやラーニングをしていて、「何故、何のために自分は仕事をしているんだろう?」「何のために学習するんだろう?」という疑問や問題意識を持つ人が確実に増えているということです。ひとりで仕事をしていて誰にも見られず監視されない中で何をしてもわからない訳です。寝転んでもいい、ゲームをやってもいい、遊んでもいい、そうした環境でそれでも人を仕事に学習に向かわせるものは何か、一言で言えば個人のモチベーションやエンゲージメント、これがますます重要課題になると思います。仕事に関して言えば、個人と向き合って会社の価値観を伝え、会社が向かうべき方向を伝えることを通じて共感を得、腹落ちさせることがこれまで以上に大切になる。これはポストコロナでは大きなマネジメントの課題となりましょう。学びの場でも同じことが言えると思います。

 

Ⅴおわりに

この時代、日本が世界に何かポジティブなインパクトを与えられないでしょうか?コロナを乗り切ったといえる何かで。マスクをつけるといわれたらつけるという「生真面目さ」、外出制限といえば従う「自制力」、自粛生活を続ける「忍耐力」、こうした日本人の持つ良さを世界に示すことができれば素晴らしいことだと思います。 

 

 

「福井の幸福」を語ろう

                                           2020-08-01

                             (2012入学:博士後期課程) 竹内 正実

 

故郷に思いを馳せる年代になった。新聞に掲載される故郷のコロナ感染者数が少ないと安心するし、同郷の社長紹介欄に親しみを覚える。

私は10年ほど前から祖父母、両親の出身県の県人会活動を行っている。その県人会とは、「47都道府県幸福度ランキング」【寺島実郎(監修) 一般財団法人日本総合研究所(編)東洋経済新報社 2018年】で4期連続(2012/2014/2016/2018)上位である福井県である。県人会に興味を持ったのは、祖父が大正時代に上京し、出版業を営みながら、多くの福井県出身者との交流があったこと、叔父が県人会活動を積極的に行っていたこと、元の会社の社長の本籍が福井県にあり、参加を強く勧められたからである。私は、東京生まれではあるが、3歳まで福井市に住んでおり、郷土を偲ぶ心は年齢とともに徐々に醸成されてきていた。県人会に参加するほとんどの方々は、福井県で生まれ、高校大学を経て東京の企業に就職した経歴を持つが、福井になにがしかの接点がある方々も積極的に参加している。 

 

福井県の県人会は他の県人会と大きく異なる点がある。それは発足の趣旨が異なる2つの県人会が併設されている点にある。第一として、120年の伝統を誇る「福井県人会」(会員数 700名)であり、他の県人会とほぼ同様の活動内容となっている。親睦会が主体であり、福井県選出の代議士との交流、総会、福井祭り、故郷旅行会、地域会の集まり等である。第二は、「東京若越クラブ」である。本稿では「東京若越クラブ」の活動の紹介を通じて、故郷とどのように関われるかのヒントとなれば幸いである。「東京若越クラブ」は、2010年、当時上場会社の社長職にあった福井県出身の方々数人が、「東京から福井の活性化を応援する会」として立ち上げた。会員数は2019年8月現在、約180名であり、経済人を中心とした構成となっている。「東京若越クラブ」のユニークな点は、福井銀行と福井新聞が2013年4月に立ち上げた、福井での次世代のリーダー養成塾「考福塾」への特別協力として講師を派遣している点である。

 

「考福塾」は、県内の企業で働く若手の経営者の皆さんが1年間塾員となり、福井ゆかりの企業経営者等を招いた講演会やグループ討議を通して、社会人としてのスキルアップや異業種間のネットワークを形成することを目的としている。その概要は、毎年45名を定員として、福井在住の20・30代の将来の経済活動を担っていく方々を対象に、関東地区在住の福井出身の経済人が福井まで出張して「考福塾」としての活動をサポートしている点である。すでに6期が終了し、270名が卒塾している。

 

2019年秋に開催されたセミナーでは、県内大学が特別参加し、県内大学の学生と塾員の皆さんが「地方創生と福井で働くことをテーマ」に議論・交流をした。大学側から持続可能性の高い地域にするために、福井の強みをブランディングすることの重要性や、中小企業の採用力を高めるノウハウ等について、話題提供があった。その後のグループ討議では、「県外出身の学生に福井に定着してもらうためには、大学の教員の方々に福井のファンになってもらい、講義等で福井の魅力を語ってもらうと効果があるのではないか」などの意見が出された。学生は社会人と、社会人は学生の皆さんと接することができる貴重な機会である。

私が本稿で「考福塾」を取り上げたのは、明治でシニア学生が学んだのち、いかにして出口戦略を立てるかに関する気付きになると考えたからである。人は、皆何かの社会貢献に携わりたいと思っているが、大学院では、なかなかその対象が見つからない。自分が住む街の町会活動、法人・個人を問わず、特定の団体等へのサポート、国際交流等多数あり枚挙に暇がない。その中で、故郷を応援するという明確な目的を持った活動は永続的な興味を覚える。「考福塾」は、従来の県人会活動をはるかに超えた、社会活動であり、将来、私も何らかの方法で関わりたいと思っている。

 

 2019年8月、福井新聞社と「東京若越クラブ」は、故郷への提言をまとめ、「福井の幸福を語ろう」(中央経済社)を発行した。約40名の会員が投稿しているが、投稿された分野は、景勝地の開発と観光の誘致、地場産業の発掘と援助、福井の先人の声に耳を傾けること、教育制度の改革などに集約される。

私は教育分野に関する3点につき提言させていただいた。第一に、福井県の3期(2014/2016/2018)にわたる幸福度ランキング一位は、たまたま教育分野の指標による評価点が高かったため、総合でトップになっているが、教育分野の指標が変化すれば、幸福度ランキングは下降してしまうこと、第二に、福井県の持つ教育分野の強みをさらに高めるために、持続可能性の高い開発目標を意識しながら、福井の持っている教育県としてのブランドを格上げする必要があること、第三に、そのための一歩として、福井の大学でシニアが『ジェロントロジー(高齢化社会工学)』を学べる、特色のある大学院の開設を検討してはどうかと提言した(pp. 225-231)。 

 

現在の「考福塾」の対象は、主に若者であるが、今後は、対象をシニアにも拡大し、生涯教育を受けられるプラットフォーム作りが必要となってくる。私的な県人会活動である「考福塾」をトリガーとして、国公私大学の改革や県の教育政策の変更を通じ、福井の教育県としてのブランドを、より高年齢者が持続可能な社会で活躍できるような場にリフォームする必要がある。

 

2017年に発表された人口統計(「人口推計」総務省)によれば、2040年~2050年にかけて65歳以上の人口が4000万人に迫り、総人口の50%に迫るという事実に着目する必要がある。つまり、より高齢者に対する「幸福」を意識した政治・社会的な施策が必要となる。その時、果たして福井県は、幸福度ランキングにおいてどのような地位を占めているのであろうか?。最後に、福井県民の皆さんは、「幸福度ランキング・ナンバーワン」という形で実感しているかというと、必ずしもそうでない。それは、故郷をよく知らないことにも起因する。もっと故郷を、自信をもって自慢しよう。

 

 

自己紹介

2020-07-01 北島 昭一

 (2020年度 博士前期課程入学 : 富野研究室) 

 

今年4月商学研究科に入学しました北島と申します。どうぞよろしくお願いいたします。神奈川県厚木市在住、昭和26年生まれです。

 

職歴は、日本ユニシス(株)で製造業システムエンジニアとして10年。金属加工機械メーカーの(株)アマダで35年間勤務しました。アマダでは、主に企画部門で機械販売・サービスのビジネスモデル企画やIoT企画など事業戦略を練る仕事が中心でした。2019年3月アマダを退職し、4月より、価値観の異なる人との交流が必要との認識のもと「立教セカンドステージ大学」に入学しました。会社生活が45年間と長かったものですから、ここで一旦立ち止まって、自分の今までの経験を振り返って、整理する時間が必要ではないかと思いました。在学期間は1年間と短い期間でしたが、充実したリベラルアーツ教育を受けることが出来ました。

商学研究科 大学院に入った理由は2つあります。一つは、社会人1年目から退職するまで、ずっと製造業の環境下で仕事をしていました。デジタル時代のメーカー・中小製造業の各企業間の情報連携に関する課題をまとめてみようと思ったからです。生産財がもたらす顧客価値づくりに焦点をあて、今までの実務の中で疑問に思ったことを整理しながら、この課題に関する研究テーマを進めていきたいと考えています。当初、商学研究科と製造業との組み合わせが果たして成り立つのか? と不安に思っていましたが、商学研究科の経営系列に製造業に関する研究テーマがあることを知り受験しました。現在、担当専修科目が「生産管理」の富野教授の指導を受けています。

 

もう一つの受験理由が、同世代のシニアの存在です。同じような年齢で、同じ勉強をする人が一緒に居たほうが、「研究」は楽しいと思いました。商学研究科シニア入試は60歳以上ということを知りましたので、ここなら楽しく学んでいける、と確信しました。

 

ちょうどこの自己紹介寄稿を書いている最中に商学研究科大学院事務室からメールが届き、明治大学全体として7月1日からの,「明治大学活動制限指針」の『レベル2』への移行により、一部の範囲の科目で部分的に対面での授業を開始する旨の案内があったが,商学研究科の授業については,引き続き,原則,オンラインにて実施する旨の連絡でした。まだまだ、当面オンライン授業が続きそうです。

 

5月から開始されたZOOMを使用したオンライン授業も最近やっと慣れてきましたが、指導教授とのマンツーマン集中議論や、一度に複数の資料を参照しながら研究テーマを整理していくような場面には、やはりZOOMは少し無理があるように感じています。一日も早く、対面授業が開始されることを願っています。そして、今度は皆さんとオンラインではなく、対面でお会いできる日を心待ちにしております。どうぞよろしくお願いいたします。

 

 

孤独死

2020-06-15    (2012年入学)博士課程後期 保浦 卓也 

 

コロナでたくさんの方が亡くなりました。その亡くなり方や看取り・見送り方を見て、何年か前にずいぶん気になったことがあったことを思い出し投稿させていただきます。

 

住んでいるコンドミニアムの最上階(14階)の老人が「孤独死」されました。存じ上げない方で、ただお気の毒に思ったのですが、その時たまたま広辞苑で「孤独死」を引いたのです(「孤独死」は「孤独」の項にその派生語、つまり「─死」として掲載されています。「孤独死」を載せている辞書はすべてそれに倣っています)。そこには「看取る人もなく一人きりで死ぬこと」とありました。これには本当に驚きました。広辞苑ともあろうものが、こんな語釈をするのでしょうか。「看取る人もなく」はその通りですが、「一人きりで死ぬ」というのは、どうしても変です。人は普通「一人きり」でしか死ねません。誰もが「一人きり」で死ぬのです。この定義から「一人きり」は外さなければなりません。ちょうど広辞苑は改版の作業をしているという新聞記事を読みましたので、なにはともあれ、知らせなければと岩波の辞書編纂部にはがきを出しました。「人は普通誰でも一人で死ぬもので、この定義を正しいとすると、孤独死の反対語は大変特殊な死に方である情死、心中、集団自決ということになってしまう」という趣旨でした。しばらくして返事がきました。きちんと差出人(担当者個人)の名前があり、前後の挨拶に挟まれた本文は以下のようなものでした(記念にまだとってあるのです)。「現在の『孤独死』の語釈中の『一人きり』は『広辞苑』の『ひとり』で語義②(注:自分だけで、仲間・相手がないさま。また、そのものだけ。そのことだけ)にある用例『一人きりでさびしく暮らす』のような意味で、いわば『看取る人もなく』と同義の句を同格表現で繰り返したものと思われます。」これにはあっけにとられました。「一人きりでさびしく暮らす」のは「二人(あるいはそれ以上)で暮らす」というオプションがありますが、「一人きりで死ぬ」には情死などの特殊なケースを除きそんなオプションはないのです。岩波の説明は意味をなしません。それでも一縷の望みをもって改訂版(7班)を待ちました。発売されるとすぐに店頭でチェックしました。今や語彙数も増え(2分冊版もあります)充実したものになっているのだとは思いますが、残念ながら「孤独死」の語釈は変わっていませんでした。辞書編纂というのは、三浦しをんの「舟を編む」でもみられるように、血ににじむような努力がそそがれているものだというイメージがゆらいでしまう気がしました。


そもそもよくよく考えると、「孤独死」そのものが、同義語反復(馬から落ちて落馬した)のような居心地の悪いものかもしれません。そこで、ほかの13種類の辞典を調べてみました(三省堂国語辞典は同じ内容のものに2つの違うパッケージがあり、普及版と縦縞が入ったタイガース仕様がありますが1種類としてカウントします。タイガース仕様とはなんのつもりでしょうか。ほかの球団仕様もあるのでしょうか)。面白いことに、同じ出版社でも取り扱いが違うことがあります。まず広辞苑の岩波の国語辞典は「孤独死」そのものを採っていません。また三省堂は上記の国語辞典と大辞林に「孤独死」を入れています。双方とも「一人きり」はありません。例えば国語辞典は「誰にも気づかれず(自分の部屋などで)ひっそり死ぬこと」とすっきりしています。末尾に広辞苑にはない「孤立死」という言葉を同義語として載せています。「孤立死」は語感は悪いけれど、「孤独死」の矛盾はないと思いますがほとんど使われてはいませんね。大辞林では、「孤立死」はないけれど「孤独死」は次のような長い語釈になっています。「誰に見看取られずに死ぬこと。特に高齢者が自室内で死亡し、死後しばらくしてから遺体が発見されるような場合についていう」。一方950ページと大変薄いデイリーコンサイス国語辞典も「孤独死」を採用していますが、「(高齢者が)一人きりで死ぬこと」と「一人きり」を入れています。そして同じ三省堂でも明解国語辞典と現代国語辞典には「孤立死」を採っていません。同様に小学館の国語例解辞典、新選国語辞典、大辞泉(これは広辞苑や三省堂大辞林よりも厚い4,000ページの大辞書)も「孤独死」を立てていません。学研新現代国語辞典は「誰にも看取られず自宅で一人で死ぬこと」と「一人」を踏襲しています。集英社国語辞典には「一人」はありませんが、しっかりとした語釈を与えています。「誰にも看取られずに死ぬこと。特に社会から孤立した独居者が自宅で急死し、しばらくしてから発見される場合をいう」というものです。この辞書も孤立死を載せています。角川国語辞典は「孤独死」を採用していません。最後にベネッセの小学国語辞典は「孤独死」をとっていません。小学生にはあまりにも遠い話なのでしょうか。いずれにしても、広辞苑を含めた14種類のうち「孤独死」を採用したのは6、そのうち「一人」派3、「一人なし」3、そして「孤独死」を採用しなかったのは8でした。非採用がかなり多いという印象ですね。これらは、同義語反復を避けたという意味で、それなりの見識があるのかもしれません。

さて、冒頭に述べたコロナで亡くなった方々の件に戻ります。まず、各主要国の看取りは近親者を含め患者に近寄ることを禁じています。最低限の医療従事者が「死亡確認」と「検疫」のために立ち会うだけです(中には近親者がガラス越しで見送るというケースなども報道されましたね。送る方、送られる方ともどんな気持ちになるのでしょうか)。これは「孤独死」とも表現できないまったく新しい死に方です。そうして、その日発表される死亡者数の中にいれられるわけです。いわば「統計死」とでも言えばいいのでしょうか。さらに、送り方はさらに異様です。ことに土葬の場合は想像を絶します。例えばイタリアのたくさんに掘られた穴にお棺が、列席者もなく機械的に埋められていく映像は胸を打ちました(死体からも感染リスクがあるということでしょう:写真)。日本の場合は、女優さんが亡くなり、その遺骨が遺族に玄関で渡されるというニュースがありましたね。火葬すれば感染はしないということでしょうが、骨を拾うということもないわけです。歴史的に葬儀のやりかたはずいぶん変化してきました。近代ではビジネスの要素(坊主丸儲け、高額の戒名など)も否定できません。にもかかわらず、おそらく民族、時代を問わず死者に対する敬意(リスペクト)を儀式化するというのは人間性の本質に根ざしているのでしょう(ネアンデルタールですら死者を葬る意図をもっていたと言われています)。コロナは死者へのリスペクトを希薄化する大きな転換点を作っているのではないかと心配します。さまざまな感染症が歴史を変えてきました。今回のコロナ(本当は新型コロナと言わなければいけませんが)が変える死の定義はどうなるのでしょうか。「孤独死」の語釈などというささいな心配を超えた問題です。

 

(一言付言します。多分日本最大の13巻におよぶ国語辞書、小学館の「日本国語大辞典」はチェックできませんでした。まだ他にも見落としは多いかもしれません)。 

 

明治大学院シニア入学にあたって

2020-06-01  (2020年度 博士前期課程入学 :山下研究室) 宇田川 博文

 

今春明治大学商学研究科に入学いたしました宇田川博文です。シニア大学院の諸先輩ならびに同期の皆様よろしくお願いいたします。新入生と申しましても校舎に入ったのは二回だけで、滞在時間も合計二時間程度と、学生としての実感はほとんど沸いていないのが実情です。こうしたことから、本稿は入学の経緯など自己紹介を中心に書かせていただきましたのでご笑覧ください。

 

私は、1955年生まれの射手座で、大学を卒業してからエネルギー業界でサラリーマン人生を過ごし、今春退任いたしました。現在は非常勤顧問という立場ですがほとんど出社する必要はなく、会社員としては実質的に隠居状態です。なぜ当院に入学したかと申しますと、多くの定年退職者が考える人生の第二ステージの過ごし方に悩んだ末の結果です。昨年の初旬にどうすべきか悩み始め、①趣味に生きる ②再就職する ③起業する ④ボランティアに励む ⑤会社員経験を何らかの形で残す ⑥学び直しする などの選択肢を漠然と考えていました。

 

色々と悩んだ挙句、①趣味に生きるのは時間を持て余しそうだと言うことで没 ②再就職は非常勤顧問の立場では難しいと言うことで没 ③起業は具体性も才覚もないということで没、④ボランティアは具体的なイメージが湧かず没、最後に残ったのが⑤と⑥で、会社員経験の伝承と学び直しでした。そんな時にネットサーフィンで出会ったのが当校のシニア入試です。強い意志を持って大学院に入学した訳ではなく、ネットで知った入試説明会にふらりと立ち寄り、成行きで受けた試験に合格し、せっかく合格したのだから行ってみようかという受動的な流れに身を任せて入学したというのが実態です。

少々古い本ですが、内館牧子の「終わった人」という本をご存じでしょうか?舘ひろしの主演で映画にもなりました。ストーリーは、定年退職を迎えた主人公が、何をするかで悩み、自分は他の老人と違うんだと考え、老人の多いサークルへ入るのを拒み、大学院への入学を試みるが途中で新興企業に再就職し、期せずして社長になるが倒産する…などの出来事に奔騰されていくというものです。結局は、倒産の後始末に私財を注ぎ込み、妻に愛想をつかされて卒婚に追い込まれ、最終的には地元へ戻ってNPOに参加し、新たな人生を歩み始めるという物語です。定年退職者の悩みや行動をTypicalにとらえ、あるある感を満載したエンターテインメントですが、身につまされる部分の多い本でした。

 

私の入学は、まさに「終わった人」の前半のデジャブのようです。高い目的意識と知恵をお持ちの皆様に対して大変失礼にあたると思いますが、これが率直な経緯です。お恥ずかしいばかりの入学顛末ですが、オンライン授業で毎日勉強に追われていますと、妙な充実感が湧き起こることもあり、もしかしたらこれで正解だったのかも?と思う今日この頃です。ともかく、めげずに走り続けてみようと考えておりますので、道に迷い、あらぬ方向へ歩みだそうとしていましたら、叱咤激励して軌道修正していただけると大変ありがたいです。

 

写真は、昨年ボツワナのチョベ国立公園に行った時にボート・サファリで撮った夕日です。現地ガイドが「Now ready for tomorrow!」と話していたのが印象的でした。私も明日の準備ができると良いのですが・・・。(チョベはとてもお勧めです)。なお、アルコール付きの夜の勉強会は昔も今も大好きですので、コロナ禍が収まりましたら是非お声掛けください。ゴルフ、テニスも大好きです。問題の多い新入生ですがお許しいただき、皆様のお仲間に加えていただければ幸いです。  

 

 

自己紹介

           2020-06-01 (2020年度 博士前期課程入学:小川研究室)  原 俊之

 

2020年4月に商学研究科にシニア入学しました原 俊之(ハラ トシユキ)と申します。ご指導頂くのは交通系列の小川智由教授です。コロナの影響でシニア入学の皆様方と直接お目にかかってご挨拶が出来ないのを残念に思っておりました。GF-Master倶楽部で自己紹介する機会を頂き、ありがとうございます。

 

学校を卒業した後にプリマハムに入社して、39歳まで海外からの牛肉の仕入業務を行いました。1999年から2016年までの17年間はゼンショーホールディングスという飲食業でグループ全体のサプライチェーンマネジメントの設計と実行を行いました。その後は米国投資ファンドの案件で地方にいました。

一昨年東京に戻り、明治大学リバティアカデミーの「物流戦略を考えるサロン」で小川教授とサロンメンバーにお会いしました。このサロンは物流に関わった経験豊かな方々が物流戦略やロジスティクス・システムに関する具体的な事例を発表し、質疑応答と意見交換をする場です。このサロンでの討議に参加することで多くの刺激を得ることが出来ました。もし可能であれば明治大学商学研究科で、チェーンストア経営飲食店のサプライチェーンマネジメントを企業規模の成長段階の観点から検証したいと考えて入学させて頂きました。

 

ゼンショーHDのグループ店舗数は低金利とデフレーションという経済環境と日本国内において冷蔵温度帯でのコールドチェーンの確立が進んだことにより、17年間に170店から5300店へ拡大しました。この中で成長段階に合わせたサプライチェーンマネジメントの見直しをする必要がありました。

 

今振り返ってみますと、個人的には多くの物流戦略上の失敗を重ねたと反省しています。商学研究科ではチェーンストア経営を目指す飲食店経営者に参考にして頂ける様な研究をしたいと考えています。コロナの影響でWEBでの履修開始となり戸惑いと不安を感じていますが、皆様にお目にかかれるのを楽しみに授業に取組みたいと思います。

 

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「大学院2年間を修了して・・・」

2020-05-01(2018年度入学)高畑 英夫

 

振り返ると3年前の2017年春、これまでの実務経験の総仕上げとして何か形を残したいと思い模索しながら幾つかの大学院のホームページを見ていました。その時に本大学院商学研究科のシニア入試制度を知り、その目的が私の思いにピタリあてはまり、ぜひ入学したいとの思いで入試説明会に参加しました。説明会には多くの参加者がいたので、合格の可能性は低いと思いつつチャレンジしました。合格通知が届いた時の喜びは忘れることができません。2018年4月商学研究科に入学し、今年3月に無事修了しました。あっという間の2年間でしたが、大変充実した大学院生活を過ごせたと思っています。大学院生活の最後はコロナウイルスの影響で卒業式・修了式が中止になり残念でしたが、この2年間に多くの方と出会うことができました。特に教授やシニアの皆様との出会いで学問の楽しさを味わうことができました。

 

授業の日は、授業時間の前後に自習室や図書館で勉強していました。若い学生と一緒の授業の発表や質疑応答は久しぶりに新鮮に感じました。社会学の学問には正解は一つではない、情報には何らかの意図があることが多く、その中から事実を知りその事実から問題を直視することが大切であると考えるようになりました。そして修士論文については内容に誤謬があってはならないと思い、ほぼ完成した段階で医療機器業界の識者お二人に査読をお願いし、貴重なアドバイスをいただきました。指導教授からも良い取り組みだと評価していただきました。

 

大学主催の講演会も幾つか聴講しました。印象的な講演会の一つが、2019年11月の池上彰氏の講演会です。特に講演の最後に、日本のリカレント教育(学びなおし)の必要性と日本の経営層の低学歴を指摘されたことでした。米国の大学院生250万人、日本は25万人、日本の大学院生の比率が非常に低いという内容です。このことに興味を持ちその後調べました。例えば2018年1月の社団法人国立大学協会の報告によると、学士課程における社会人学生の比率は低い(OECD2015によると25歳以上の入学者は日本1.8%、OECD平均17.6%)。修士課程、人口100万人当たり修士号取得者数を主要国と比較すると、日本は極めて低い水準である(日本624人、イギリス3,765人、アメリカ2,395人、ドイツ2,168人:科学技術指標2015)。大学院生における社会人学生の割合は、2000年度の12.1%から2014年度では22.3%となったが、近年は伸び悩んでいる。またアメリカの上場企業の人事・営業・経理部長の4~6割が大学院卒であるが、日本の企業役員では6%程度にとどまる(総務省等)ということがわかりました。社会全体の高学歴化と社会人が学び直すリカレント教育が進めば、日本でも競争力の強い新産業が立ち上がってくるのではないだろうかと思うこの頃です。 


さて、ここで修士論文面接が無事終了し卒業までの期間に読んだ本についてご紹介したいと思います。それは、昔の恩師から大学院修了のお祝いの連絡いただいた時に紹介された本で、著者村木嵐の『夏の坂道』潮出版社、2019年です。故郷のことも書いてあるとのことで早速読みました。政治哲学者南原繁(戦後初の東大総長1889年-1974年)を主人公とする小説です。理想主義者の学者生涯を通した日本の近・現代史として読みました。昔の東大学生は如何に学び考えたか・・・・学問の大切さがよくわかる内容となっています。彼の信条は、Do the nearest dutyです。イギリスの歴史家カーライルの『サーター・リザータス』にある言葉です。「最も身近にある義務、それを果たすこと。目の前の義務を果たせば、次になすべき義務が見えてくる。それを果たせば第三の義務が、さらにその次の義務が明らかになる。それを続けているうちに、天職を知る。義務を果たしながら進めば、いつか使命になる。」と述べています。

 

また、印象に残っているのが、“政者正也(まつりごとは正なり)”という正義の実現こそ政治だという孔子の信念を表す論語の一節です。政治とは何かと問われ孔子は次のように答えたとあります。「為政者自身がわが身を正しくすれば、誰があえて不正を働くでしょう(不正を働くものはいなくなります)!」現代にも通じることではないでしょうか。南原繁のことをもっと詳しく知りたくなり、著者山口周三の『南原繁の生涯』教文館、2012年を読んでいます。この本は南原繁の評伝です。先の小説とは少し異なりますが著者は南原繁研究会の事務局長ということから豊富な文献をもとに書かれています。前述の国立大学協会は戦後設立されましたが、南原繁が尽力したとあります。ちょうど今年4月、その東大に私の姪の子が入学しました。彼のこれからの成長を楽しみにしたいと思っています。

 

最後になりましたが、4月に入学されたシニアの皆様ご入学おめでとうございます。コロナウイルスの影響により大事な入学式の中止や授業開始が遅れるなど様々な事が起きてはいますが、一日も早く収束し充実した大学院生活が出来る事を願っています。また、お世話になった教授、大学院事務室、メディア支援室、図書館、シニアの皆様にあらためて感謝申し上げます。

 

 

いままでの2年・これからの3年

2020-04-03 (2018年度) 伊藤 富佐雄

 

2018年度入学の伊藤富佐雄です。コロナウィルス禍、お見舞い申し上げます。無事修士論文を書き上げ、修了することが出来ました。今年の終業式は国技館ということで楽しみにしていたのですが残念なことにとりやめとなってしまいました。

 

修士課程の2年間、若い人たちとの交流で自分も若いと錯覚する一方で、シニアの皆様との交流で現実に戻るという経験は新鮮でした。授業は年寄りの頑固さで教授の迷惑も顧りみず、結構引っ掻き回した感もあります。教授の説明になるほどと思うことも多い反面、その場で納得しても覚えられず、次の授業で活かせないこともしばしば。歳だなぁと思う場面はシニアの皆様と共有できる体験であったかと思います。

 

修士論文は高畑さんとともに『実践知の創造と伝承』第7号にて報告させていただきました。「多国籍企業の競争戦略における相互作用」と、身の程知らずなくらいテーマを大きく取ってしまいました。そのため、途中、とてつもなく広がってしまい、どう収拾しようかと思ったほどです。口頭試問では後期課程への進級を明言していたこともあり、担当教授、副査の先生以外の先生方からも場外でけっこう厳しいご意見と貴重なアドバイスを頂きました。出来上がりを改めて自問いたしますと、結論が甘いなぁとか、簡単にしか触れることが出来なかった結論をもっと深堀りすべきだよなぁとか、いただいたご意見に反論したいなぁ、などと思いつき、もうしばらく研究を継続することにしました。

 

学内進級の要件に2本の学内、または学会での論文掲載がありました。実は学内論集では事前登録をミスったため、私の場合、学会掲載2本が必須となってしまいました。それも間に合わないかもしれないというタイミングで。一本は日本貿易学会で採録していただきました。この学会は担当教授が会長を務めていましたので査読時間の短縮など、大変お世話になりました。論題は「国際化の原因と結果について-医薬品業種中堅企業を事例として-」です。大手と違い規模と国際化の相関が認められない中堅企業では新薬事業とジェネリック事業で前者が海外、後者は国内の傾向があるという事例研究です。また、市場成長率、競合数、使用期間の長さが海外・国内の志向に関係がある、という結論も得ました。この業界は事業に成功すると対象市場が縮小するという命題を持っているので興味深いです。もう一本は国際戦略経営学会で修正のうえ採録を決定して頂きました。こちらは10年近く企業人枠で参加している学会です。論題は「海外派遣員の可能性-人的資源管理から求める二元圧力の解-」です。海外事業を行っている企業を“二国籍企業”“少国籍企業”“多国籍企業”にわけました。少国籍は多国籍に対する言葉遊びですが、ネットワークの有無で区別しました。その上で、二国籍から少国籍段階にかけて現地化圧力がかかるが、多国籍化しネットワークが形成されていくにつれ、オーケストレーションが必要とされる。担う人材は特有の定義がある“優秀なローカルスタッフ”の育成・確保が出来ていないと海外派遣員に回帰する、という結論です。

 

知り合いの教授によりますと、学内進級基準としての2本の論文掲載はかなり厳しいものだそうです。私はラッキーでした。無事学内進級面接をパスしたいま、授業再開を待っています。 外出もままならない春休みは分厚めの本に挑戦する良い機会かもしれないと高等(光頭?)遊民の読書生活を送っています。少し紹介致します。


一冊目は『世界標準の経営理論』入山章栄著、ダイヤモンド社。2019年12月11日に第1刷ですが、2020年1月6日でもう第3刷という売れ筋本です。競争戦略をやるなら読んでおきなさいという必読書指定なのですが800ページ以上もある分厚い本です。この本では「なぜビジネスパーソンに、いまこそ経営理論が必要か」という観点でまとめられています。は組織学会で何度かお伺いした話しっぷりそのままに切れの良さが身上かな、と思います。

 

二冊目は『虚数の情緒 -中学生からの全方位独学法』吉田武著、東海大学出版部。手元にあるのは2000年第1刷、2017年第29刷で息の長さが伺えます。題名から想像できる通り数学、物理学を軸としながらも歴史や政治、文化などに話を広げ、独学の方法論を説いている、これまた950ページを超える分厚い本です。分厚さは、著者も巻頭言で述べていますが、「紙数の関係で…」を言い訳にしない丁寧さで書かれており、時間をかけて読みたい本です。

 

三冊目は『哲学と宗教 全史』出口治明著、ダイヤモンド社、2019年。著者はライフネット生命創業から立命館アジア太平洋大学学長に転身した実業家出身です。全史なのでもう少し書き込んで欲しいなと思う部分もあるのですが通して見えるものに焦点を当てる意図は理解できます。ある教授に実務家出身の方は全体から捕らえようとするので話が広がる(散らかる?)傾向にあると指摘されたことがありますが、実務者だから取りえる視点かもしれません。

 

毛色の変わったところでは『万川集海』という忍術の秘伝書でゲリラ戦の心得と実践を、『簠簋内伝金烏玉兎集』という陰陽道の秘伝書では吉凶としてみる外環境の捉え方を、『古事記伝』では命令する神に対し、実行を議論する神々に日本古来の意思決定を見たりしています。

 

後期課程への学内選考面接で面接官の先生から後期課程に進む「覚悟」を求められました。考えてみれば数年前まで私も子会社の経営を引き受ける後輩に「覚悟」を求めていました。今考えると自分は覚悟を持って経営していたか。持って遂行していたと信じ、後期課程も持っていけると進んでいこうと思います。3年で博士号を取るのは結構ハードルが高い、とも言われました。それもまた楽し、としたいな、と思いながら。

 

 

「BREXIT」と「MEGXIT」

2020-03-01

                商学研究科前期 寺瀬 哲

 

2016年6月の国民投票で世界に衝撃を与えた英国のEU離脱投票結果から、4年弱が経過した今年1月31日午後11時に英国は正式にEUから離脱しました。と言っても今年12月31日迄は移行期間として従来と特に変化はありません。小生も2月中旬から英国に滞在していますが、街はいままでと全く異なった風景はありません。スーパーマーケットには相変わらずスペインやイタリアを始めとするEU圏からの豊富な食材が商品棚に並んでいますし、(英国ではじゃがいもやリンゴ、いちごなど限られた農業製品しか生産出来ないのです!)EUからの輸入に際して新たに税関も設けられておらず、関税も課せられていない為値段も以前と大きくは変わっていません。ただここ最近は便乗値上げと思わる程食品の物価上昇は著しいですが!(ポンド安の影響?)国民投票時に首相だったデビットキャメロンが辞任した後、マーガレットサッチャー以後2人目の女性首相テレザメイ女史を経て、現在ボリスジョンソンが首相になり今般やっとEU離脱が成し遂げられました。

 

ボリスジョンソン氏は元々高級新聞タイムス紙の論説委員であり、2012年のロンドンオリンピック開催時にはロンドン市長をして、庶民派の政治家として人気の高い政治家です。デビットキャメロン元首相とは共に名門私学校イートン校からオックスフォード大学に進学した学友として国民投票までは非常に仲が良かったとされています。そんな2人が国民投票でEU「残留派」と「離脱派」の真二つに分かれて政争で戦った訳であります。デビットキャメロン氏が最近出版した自伝にはボリスは国民投票までは反EUの立場は一切言及しておらず、自分にとっての政治キャリアで「最も有利な結果」の為に離脱派になったと書かれています。ボリスの実妹も最近のインタビューで、兄からEU離脱発言はそれまで一切なかったと答えています。いずれにせよボリスが今回の離脱に大きな役割を果たし、後々まで彼が英国でEU離脱の首相として語り継がれるのは間違いありません。

 

ただ最近の各新聞の論調では12月末までのEUとのFTA(自由貿易協定)合意は非常に難しいとされていて、英国の経済状況を最悪にする可能性のある「合意なき離脱」の可能性は全くゼロでないとしています。そんな状況でもボリスは交渉で認められている年末以降の移行期間延長は一切実施しないと明言して、強気の姿勢を崩していません。EU側もフランスのマクロン大統領を始めとして英国に「いいとこ取り」は絶対にさせないとしていますので、まだまだ離脱問題の解決は平坦ではなさそうです。離脱後の会見で首相は現在EUとカナダ間に結ばれているFTAがベストチョイスであり目指すとしていますが、このEU=カナダ間のFTA交渉には交渉開始から4年近く歳月を要していますので、12月までの実現は不可能であるとの意見が大半であります。

 

ところでそもそも英国がEUから離脱して何が英国にとってメリットなのでしょうか?国民投票に際して離脱派スローガンにはEUから主権を取り戻す(Take back control!!)やEUに毎年拠出している額は週3億5千万ポンド(約4900億円)に及びこの費用を英国の健康保険NHS(国民皆保険制度)に振り返る事が出来る(投票後に離脱派はこれをすぐに撤回しましたが!)移民受け入れの大幅縮小などで具体的な政策論争は実施されず、英国民に対してかつての大英帝国時代のノスタルジアに訴え勝利したのです。背景にはサッチャー政権以後の新自由主義のひずみとして生まれた所得格差社会の拡大やリーマンショック後に実施された厳しい緊縮財政に対する不満がピークに達していたにもかかわらず、残留派は離脱すれば景気が大幅に悪化する恐れがあり、失業・企業倒産が相次ぐとする強迫観念のみに頼った宣伝活動を行なうだけで、世論は離脱派の既存特権階級に対する反発と反エスタブリッシュメントの訴えに同調した結果(2016年11月米国トランプ大統領誕生と共通)と分析されています。都市部や若者の残留希望が多いのに対して、地方都市、高齢者、低学歴の有権者の高い投票率によって離脱の意思がもたらされたとしています。この離脱について今年12月の移行期間終了時に再度大きな波が英国を襲うのは間違いなく、年末にかけ再び注目が集まると思われます。 

 

ところで皆さま!日頃の勉学でちょっとお疲れのことと思いますので?英国の少し庶民的ゴシップ話題で最近タブロイド新聞(大衆紙)を賑わせているMEGXITについて少し説明します。英国王室に少しでも興味のある方は既にご存じだと思いますが、チャールズ皇太子と亡きダイアナ妃の次男ハリー王子の妻で元女優のメーガン紀の話題です。1月にハリー王子が突然王室の公式行事への不参加と今後の二人の独立した経済活動開始を発表して、英国では大きな話題になっています。

 

もともと一昨年5月の結婚以来、派手好きなメーガン紀の行動に対して頻繁にメディアから批判されていました。毎回公務の度に身に着ける服装に数百万円かかっているとか(この費用は英国民の税金である皇室費から支払われている)、BABY SHOWER(子供が生まれる前に妊婦が友人と過ごすパーティ)に数千万円浪費したとか、ホリデイの度に高額なチャーター機を使用するなどし、一方の長男ウイリアム家族はホリデイにLCCを利用した(これはメーガン妃に対する嫌みと思います。笑)などなど、事あるごとにメーガン妃に対してはタブロイド紙から痛烈に批判されていて、それに対抗してメーガン妃が批判記事を掲載した新聞社に対して法的手段で提訴するなど、常に話題に事欠かない彼女の行動が注目を浴びています。また彼女がアフリカ系アメリカ人であることから人種差別的な扱いを受けているとも訴え、その結末としてハリー王子が皇室を離脱し王室から経済的に独立するとする声明に至ったのです。この事件をユーモア好きの英国人らしくBREXITになぞってMEGXITとしています。現在二人はカナダに居住していて、メーガン紀は女優への復帰も考えているとか?ゴシップが大好きな英国民ですので最近はBREXITよりもこの件を注目しています。

 

最後に現在中国の武漢で発生した新型コロナウイルスによる肺炎が猛威を奮っています。英国でも連日ニュースで大きく取り上げられており、中国に次いで日本が危険国とされています。特に高齢者が重症化する可能性が高いとされていますので、シニア世代の我々は特に感染予防に気を付けなければなりません。皆さまにおかれましてもくれぐれも用心してお過ごしください。  

 

 

「大学院は!?」と問われて。

2020-02-01 (2016年入学) 杉村 和智

 

2016年4月に明治大学商学研究科に入学してから、本年3月で4年の歳月を大学院で過ごすことになる。2018年3月に商学研究科を修了し、同年4月に情報コミュニケーション研究科博士前期課程に再入学をしたことも貴重な体験となっている。二度も前期課程に在籍したため、シニアの知人達から折々に「大学院はそんなに良いところか?」・「行きたいと思うけれど入るのが難しそうで…」・「費用はどれ程かかるのか?」などの質問を受ける。昨年末も立教のシニア大学を3月に終える方から同様の問いを受けた。そんな時には次のように答えている。

 

まず、「学び直しは絶対に必要と思う。自分の経験と50年前の学問を一旦カッコに入れて、個人的あるいは社会的テーマを正面から少人数且つ世代横断的に議論できるのは大学院しかない。シニア同士の議論は得てしてノスタルジーに満ちたある種の昔話になりがちだ」と話す。 

次に「すぐに働く必要がないなら、夜間のMBAより全日の大学院がお勧め。夜間はシニアに辛いと聞くし、全日は夜間の社会人コースより授業料が相当安い」・「院生用の研究ブースがあり、PCやコピーカード・オープンプリンターも使える。さらに明治大学と提携している病院に行くと個人負担分を大学生の保険で払ってくれる。少額の保険料を学費と共に払うが、シニアにとってメリットが大きい」と説明すると大半の方は「へぇ~」と身を乗り出してくる。併せて、日本人の若い院生は少なく中国などからの留学生が多い現状を説明する。 

「どの様にしたら合格するのか」と聞かれる場合も多い。私の場合は「これは我々院生には分からいが…」と断ってから、「単なる知識習得を目的として学ぶではなく自分のテーマを論考するために学ぶというスタンスで研究計画書を書き、面接試験に臨むことが大切ではないかと思う」と答えている。そして「大学院に入って、考え続ける習慣を得た」と総括する。シニア院生各位は、どの様に話されているのかと思う。

 

最後に、現在感じているシニア院生を取り巻く課題を三点書いておきたい。

  ・シニア院生の出口戦略

    基本的には個人の問題であるが、何かしらの出口戦略が必要かもしれない。

  ・女性シニア院生の不在

    家事労働・学費確保・会社経歴など社会的要因が大きいと思われる。

    ・修士論文では回収しきれない経験知

    論文という方法論では、回収されずにこぼれ落ちる経験知が相当あるのではないか。

などに想いをはせながら、4年目の大学院前期課程を過ごしている。

 

 

「金を求めて」の旅 その2

2020-01-01(2013入学)髙松俊和

 

昨年、我が国初の金の産出地である宮城県涌谷町を訪れ、黄金山神社や周辺地域を視察した。また、同町の学芸員の方から資料や説明を受け、「此処の金が大仏に使われたのか」と一人感慨にひたった。実際に現地に立つと、奈良の大仏がすぐそばにお座りになっているような感覚になり、糸で結ばれたようで嬉しくもあった。その涌谷町の文化財保護班の方から連絡が入り、今年の日本遺産に認定されたとの事。「みちのくGOLD浪漫―黄金の国ジパング、産金はじまりの地をたどる―」のストーリーで、同県気仙沼市、南三陸町、岩手県陸前高田市、平泉町の2市3町が対象。9月末にみちのくに向け出発した。

 

今回は、中尊寺を中心に周辺を見て回り、可能であれば金山の跡も何か所か行く積りでした。中尊寺には50年位前に一度来ているはずだが、殆ど記憶にない。今思い起こすと、当時は、金=金持ちとのイメージがあり若い頃の反発心から、ただ素通りしただけなのかもしれない。

 

現在、自分が「金」に拘っているのは、幼少期の貧しさ故か、今だに衰えぬ物欲のなせる業なのか。でも始まりは、2度の大火にも耐えて1200年以上前の東大寺大仏台座や大仏殿前の八角灯篭に残存する金めっきを目にしてからだと思う。ごく僅かな量ではあるが、長い年月を経てもその輝きはとても美しかった。「金」にまつわる多くの人の欲や苦悩が垣間見えるように思えた。因みに、使用環境や層の厚みにもよるが、現在の電気金めっきで20~100年、金箔で100~300年程で金の痕跡は消えてしまうだろう。金閣寺や日光東照宮では、50~60年経過して金箔の張替を行っている。

 

金が多くの人々を魅了し続けるのはなぜなのか。金属の価格だけならば、レアメタルのパラジウム、レニウム、ハフニウムなどは同じくらいの単価である。色がついているからなのか。単金属ではっきりとした色がついているものは二つしかない。金と銅である。銅を見てもときめかない。金の魅力は、理屈ではなく“金ぴか”に惹かれる人の心理なのかも知れない。

さて、平泉に到着して地元の方の案内で毛越寺庭園、観自在王院跡を見学。毛越寺の5つの伽藍はすべて失われているが、池を中心に配置して中島や州浜のある庭園を歩いてみると、京都の修学院離宮を思い起させる。良く手入れされた、自然景観を取り入れた品の有る庭園でした。左の模型のように配置された寺院をより荘厳にさせたであろう。 

 

次に中尊寺に向かい、金色堂へ。一辺5.5mの阿弥陀堂は3つの須弥壇が配置、螺鈿や蒔絵が散りばめられ、豪華絢爛の言葉通り。現在の同堂は、昭和の大修理の時に純金の金箔で復元されているが、それ以前の金色堂に使われていた金の分析では銀を含む金と銀の合金(青金)が使われていたことが造幣局、文化財研究所から明らかになっている。宮城、岩手県の砂金は、銀の割合が10~17%との分析結果が出ているのでこの地の砂金だと思われる。色味は薄緑の入った黄色なので、今ほど過度な派手さがなく、やや落ち着いた雰囲気を醸し出しているのではないか。少し、ほっとした。

 

金字で書かれた経典類(紺紙金銀一切経、紺紙金字一切経、金字宝塔曼荼羅図)も拝観。仏土(浄土)は瑠璃(青色)地であり、金や銀などの七宝によって荘厳されていると説かれていることによるらしい。変色しやすい銀字の部分も輝きを失っていないのは何故なのか。不思議である。

毛越寺伽藍配置

中尊寺金色堂


平泉は、奥州藤原氏がこの世の浄土化とこの世にいながら極楽浄土に往生、すなわち極楽浄土に往って生まれることを目指した場所との解説を聞いた。私は、乏しい仏教についての知識をこの機会に深めなければとも考えた。それにしても、金色堂などで使われた金以外に権力者への贈与、1187年東大寺再建に際し大仏めっきに三万両、先の一切経の購入に十万五千両などの古資料がある。8世紀の大仏めっきで八千両の金なので、資料の数字はかなり誇張されていると考えるが、豊富な金は何処にあり手に入れることが出来たのか。

 

玉山、今出山金山に向かったが、私有地であったり傾斜のきつい山腹なので、案内人がいないと現地を確認するのは無理であった。事前調査を行った上で次回以降に回すことにして、岩手県立博物館(盛岡市)で鉱山の資料を調べてみた。砂金は広範囲に分布したが、砂層は一般に薄く、採金場所は転々と移動し且つ秘中の秘であるので、採掘場所の時代的変遷を辿るのは甚だ困難との説明を受けた。同館の資料を基に左記の岩手県の地図に印してみた。 

古代から近代の鉱山跡なので時代が特定できていないが、県内に140カ所以上に及ぶ。地図に赤で記した場所が金鉱山。1m×0.8mの手作り地図を縮尺したので見にくいが、北上川流域に多く点在している。NHK「ブラタモリ」の受け売りであるが、北上山地と奥羽山脈の地質構造は異なりその境界に北上川があるらしい。

 

749年に金が産出されてから9世紀以降前進基地に柵や城を築造しながら北進した。みちのくの地下資源の開発は蝦夷征伐の名のもとに幾多の戦を経ながら進められた。12世紀の90年間奥州藤原氏4代は豊富な金によりの平泉を繁栄させたが、源頼朝により滅亡。黄金で繁栄し黄金のために滅ぼされたということかもしれない。

 

岩手県史に中尊寺金色堂には気仙沼市と南三陸町の砂金が用いられ、陸前高田市の玉山金山は江戸時代に仙台藩の財政を支えたとの記述もあり、暫く「みちのくの金」に付き合うことになりそうだ。 

ところがである。先日、袋田の滝に向かう途中に「栃原金山」の看板を発見。地元の人の話では、江戸時代から採掘しており、20年前に閉山している。この地域には、金の名の付く地名が多く、隣の栃木県には古代産金の里もあるとの事。茨城県に金山とは、想像もしてなかった。急ぎ栃木県那珂川町に行くと、“那須のゆりがね”の旗があり、ゆりがね=土砂にまじっている砂金を水中で揺すって選び分けることとの説明。調べてみると和歌の歌枕として読まれており、

   「あふ事は 那須のゆりがねいつまでか 砕けて恋に沈み果つべき」

再び、8世紀に戻された気分であった。


今年話題になった「佐竹本三十六歌仙絵巻」の元所有者は佐竹家であり、明治期に切り離された。常陸国は佐竹氏の領地であったが、関ケ原の戦いで西軍に与したために秋田に国替え。帰路の車内で私は、

 「なるほど、佐竹家は豊臣時代に常陸の金を持ちながら54万石まで大きくなった。金を徳川家の物と

  するために、家康は当地を御三家の水戸藩の領地としたのか。この推理はどうかな。」

 「それは、推理ではなくてあなたの想像、いや妄想に近いんじゃないの。そんなことより、前を見て

  運転してよね」

と妻からお叱りを受ける始末。「古代産金の里」の検証をせずには、先に進めないので、年明けから始める積りです。